37.正しい時間の使い方

  3月26日から始まったサマータイムは、4月は天気が悪かったせいもあって、そんなに実感できなかった(4月のアバディーンの降雨量は最終的には130ミリで、これは1941年以来の記録だそうだ)。しかし5月に入り、晴天の日が多くなると、なるほど日が長くなったなあと実感できるようになった。

裏庭のプラムの花(4月下旬)

  朝は5時といえば明るく、裏庭に訪れる小鳥たちが甲高くさえずりを始める。
  我が家の鳥時計(Singing Bird Clock)は、朝7時のレン(Wren:ミソサザイ)から鳴き始める。
  我が家の2階の窓からは太陽が昇りはじめる方向と沈む方向がよく見えるが、日の出の方向も日の入りの方向も、冬に見た方向とは明らかに違っていることがわかる。「日の出は東、日の入りは西」というのは小学校のときに習ったことだが、それが季節によってずれるとは知らなかった。ずれるというより、かなり違うといったほうがいいほどだ。

  さて、我が家では、夕方6時には夕食をとることが習慣になっている。
  4月の上旬ぐらいまでは、午後6時といえば、冬に比べれば明るさは残るようになったものの、薄暗く、夕食はその日最後の食事というのにふさわしかった。

  4月下旬から、食卓がある窓辺に西日が入るようになり、最近は、夕食時間でさえ、かなり高いところにある太陽の強い日差しが差し込むようになった。窓から差し込む太陽の光を受けながら食事をするというのはなかなかいいものである。
  札幌でも真夏には午後8時ぐらいまで明るい時期があるが、それは明るいというだけで太陽の日差しは感じられない。太陽がずっと下の方にあるからである(建物が高いというせいでもあるだろうが)。しかも札幌の午後8時の明るさはあっという間に暮色に染まる。札幌の花火大会が7時45分開始というのは頷けることだ。

  しかしアバディーンでは、午後6時には、太陽がずっと上にあり、午後7時でもまぶしい太陽を見ることができるのだ。それは、朝7時に鳴いた鳥時計のレンが、再びそのいい声を聞かせてくれるほどの明るさなのだ。
  「ホントに明るいなあ」

  夕食が終わると、ちょっと一休みして、バスタイム。そして子供達は、午後9時にはゴー・トゥー・ベッドと相成る。サマータイムの前はこれで良かった。
  ところが、最近では、東側に面しているベッドルームでさえ、カーテンを閉じていても、午後9時に、まだ十分明るさが感じられるのである。窓から外の風景を見ればはっきり見える。
  「あっ、あそこでまだ遊んでいるよ」
  子供が窓越しに指差した方向では、近所の子供がフットボールをしていたのである。我が家でも夕食後、裏庭で遊んでみたりした。しかしどうにも間が持てないのであった。


1階窓からの明るさ(5月上旬の午後8時)
        
同じ日同じ時間の2階からの明るさ

  「こんなにいつまでも明るいのだったら、夕食後もどこかに遊びに行けるのにね」
  しかし、当地の商店街はいつものように午後5時には閉店するし、観光地も5時か6時にはクローズする。したがって買い物にも観光地にも行けないのが現状である。

  『日本なら暗くなるまで時間を延長して営業しているはずなのに』
  そう思ってハタと気が付いた。
  『そうだ、だからサマータイムなんだ』
  サマータイムは、明るさを存分に楽しむためにある。買い物や観光地を訪れるためではない。商店で働く人も観光地で働く人もそれは一緒だ。午後5時に退社して、その後のサンシャインを少しでも多く堪能するためにサマータイムがあるのである。冬の日照時間が短いだけに、なおさらそう思うのは当然のことだ。当地の人々は、冬でも夏でも同じ時間に出社して同じ時間に退社しているだけなのだ。『まだ明るいから働こう』などという、農耕民族のような発想はないだけだ。だからサマータイムが有効に機能しているともいえるわけだ。

  さて、もっともらしい解説をしているが、我々にとって切実な問題が発生した。それは子供達が午後9時に寝ることができなくなったのである。小鳥たちのさえずりが聞こえ(鳴き声はさすがに10時には聞こえなくなる)、時々、外から子供達の遊ぶ声すら聞こえる時間なのである。明るさの点からは、まだ寝るには早過ぎる時間であった。

  1年のうちで一番日照時間が長いのは6月下旬であるという。その時期には、朝4時前には明るくなり、夜は10時過ぎまで明るいという。農耕民族がサマータイムに合わせなければならない事態だ。
  『どんなことに時間を使おうか』
  最近、ちょっと頭を悩ませている問題がこれである。[08/May/2000]


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