26.ホームドクターの名前を教えて下さい

  英国の医療には二つの選択肢があるようだ。一つは全額自己負担のプライベート診療を受ける方法、もう一つは基本的に自己負担がない(税金で賄われている)GP・NHS制度を利用する方法である。一般的なのは後者のようだ。医療を受ける必要が生じた場合、GP(General Practitioner)といわれる一般開業医に行き、そこでさらに治療が必要だと判断された場合、NHS(National Health Service)の病院(専門医)に回される。日本でも、風邪程度なら内科医院に行き、薬を処方してもらい、風邪ではなくもっと重大な疾患があれば大学病院などを紹介してもらうというプロセスを踏むので、この意味で、GP・NHS制度と同じように見える。しかし、もっとも大きな違いは、GPで治療を受けるためには、事前に登録が必要であるということである。

  渡蘇前にも、アバディーンに住んでからも、GPについては正反対の二つの意見を聞いた。その一つは「GPに登録すれば原則的に医療費はタダなので是非登録すべきだ」というものである。もう一つは「GPはNHS病院に患者を送らないための関所のようなもの。薬は処方するけど医療行為らしい医療行為はしない」というものである。前者の意見を伝えてくれた方は「GP登録するのだから旅行者保険など契約しなくてもいい」という。後者の意見の方は「いざというときにはGPはあてにならない。旅行者保険に入ってプライベート医療を受けるほうがいい」という。

  ずいぶん迷った末、渡蘇直前に旅行者保険を契約した。家族全員で、しかも期間が1年であるのでその保険料は結構な金額になる。しかもあらかじめ保険会社が定めたセット保険では無駄な内容まで契約しなければならない(たとえば、携行品損害や救援者費用などは不要だ)。そこで、パーツごとにわけて契約することにした。本当に必要なのは傷害と疾病の場合の医療費である(保険会社もさすがプロで、疾病治療の保険料だけがやたらに高くなっている)。支払いができる範囲でその部分を厚くした保険契約を結んで当地に来た。

  小生の考え方は、風邪や胃痛などは日本から持参した薬か、当地の市販薬で治し、どうしても医療を受けなければならない事態(たとえば骨折など)が発生したときには、プライベート医療か、「999」に電話をしてGPを通さずダイレクトに病院に行くというものであった。つまりは保険契約を超えた場合の費用負担を覚悟し、GPの登録はしないというものであった。
  現に当地に来て風邪を引いたり、体調不良にもなった。しかしそれらは日本で生活しているときにも起こっていた程度のものであるし、持参した薬や当地の薬局で購入した市販薬で治る程度のものであった(日本でも初期の風邪ぐらいでは病院には行かない)。ちなみに、当地の市販薬の中にはGPが処方箋を出すときに使われるものもあるらしい。それだけ強い薬があるということだ(なお、市販薬についてはOTC日本語版を入手して利用している)。

  子供達が当地の小学校に入学するときに書かされた書類の中に、ホームドクター名と連絡先を記入する欄があった。小生が「我々は旅行者保険に入っているのでGP登録はしないつもりです」と担当の事務員にいうと、その事務員は「わかりました」と答えた。我々はそれでいいもんだと思っていたし、いざとなれば旅行者保険を利用すると考えていたので、それ以来、GPについては忘れかけていた。

  さて、もうすぐ冬休みに入るという時期に、長女が学校からいくつかの書類を持ち帰ってきた。その中に「ホームドクターの名前を教えて下さい」という手書きの文章が記されていた。それを見た小生は『入学の時のことをお忘れになったのでしょうね』などと思い、提出すべき書類の中に「我々は旅行者保険に入っているのでGP登録はしないつもりです」と書いた手紙を混ぜて長女に持たせた。
  ところがいよいよ明日から冬休みという日、学校の事務員から電話が入った。
「ハロー、グラッシュバーン小学校の者です。」
「ハロー、いつもお世話になってます。」と小生。
「娘さんからの手紙を読みました。サンキュー。」
「いえいえ。」
「GP登録はしていないのですね?」
「そうです。でも旅行者保険に入ってますから・・・。」と小生。
「それはわかります。しかし、もし学校で何か病気や傷害が発生したとき、我々は最初にホームドクターに連絡することになっています。校長先生とも相談したのですが、是非GP登録をしてほしいのです。事情がおわかりになりますか。」
  この電話を聞いたとき『何を今さら・・・』という思いもあった。『だとすればどうして入学時にGP登録を勧めてくれなかったのだろう?』という思いだ。しかし「もし学校で何か病気や傷害が発生したとき」といわれると『それもそうだな』と思ってしまう。この期に及んでは「絶対にGP登録はしない」などと拒否できない。当たり前だ、子供達のことを思って強く勧めているのだ。
「わかりました。早速登録したいと思いますが、どこのGPに登録すればいいか教えてくれませんか?」と小生。
「住所はどちらですか?」
「ニューバラロードです。」
「それでは○○か××ですね。」
「あなたの協力に感謝します。」といって電話を切った。

  こうして、間抜けな話ながら、当地に来て間もなく5ヶ月が経過しようとする時期にGP登録をすることになったのである。

  その電話のあと、紹介してもらったGPの一つに電話。するとまず登録用紙を取りに来てほしいとのこと。登録用紙に必要事項を記入したあと、改めてドクターと会う日時を決めるようだ。しかし肝心のGPの住所がわからない。
「これから伺いたいのですが場所がわかりません。」と小生。
「ブレイヘッドウェイをご存じですか?」
「ああ、郵便局のあるところですね。」
「そうです、その建物の2階です。」
「わかりました。では伺います。サンキュー」と小生。
  『あんなところに病院なんてあったけ?』と思いながらも、その場所に向かった。そこは、2階建てのL字型の建物で、1階には、コンビニ(この中に郵便局がある)、肉屋、ファンシーショップ、酒屋などがある。とても病院があるような雰囲気ではない。郵便局には何度も足を運んでいたが病院があるなんて気付きもしなかった。
  しかし、その建物を見ると、2階に通じるドアの上に小さな「SURGERY」の看板があった(英国では医院や診療所をSurgeryというようだ。この単語、受験英語では「外科」と覚えたハズだが)。
  初めて入る英国の病院。ドキドキしながら入り口のドアを開けると、右手にはコの字型のシートがある待合室、左手には受付があった。見かけは日本の個人病院と変わらない。待合室には、老若男女がシートにびっしり座り診療を待っていた(ちなみに病院の中は肉屋の臭いがした。階下は肉屋だということを思い出した)。
「さきほど電話した者です。GPの登録用紙がほしいのですが。」と小生。
「何人分ですか?」と聞かれたので人数をいい用紙を受け取った。すると受付の女性は、
「ドクターとの面談はいつがいいですか?」
「いつでもいいです」と小生。
「では12月30日の午後3時20分に来て下さい」
『12月30日? 日本ならとっくに休業している』と思いながらも、「わかりました」と答えて用紙をもらい帰宅した。

  記入を求められた用紙は2種類だった。一つはGPの公式の登録用紙(Application to Register with a General Medical Practitioner)、もう一枚はこのGP独自の問診票を兼ねた登録用紙(Registration Form)だった。
  公式の登録用紙は、登録者の詳細事項、ドナー登録をする場合の承諾事項、前に登録している場合の登録内容、そして担当医師の同意事項の4つの内容からなっている。
  登録者の詳細事項に記入するのは次の項目である。
  ・姓名
  ・旧姓(必要であれば)
  ・生年月日
  ・性別
  ・住所と郵便番号
  ・3ヶ月以上そこに住むかどうかのチェック
  ・署名と署名日
  我々は初めての登録であり、ドナー登録をする予定もないので、「登録者の詳細事項」欄だけに記入すればいい。簡単なものである。
  ところがもう一枚の登録用紙の作成の一部が小生を大いに悩ませた。この登録用紙はオモテ・ウラに記入する箇所があった。
  まずオモテ。これも、最初は住所、氏名、生年月日、電話番号、職業、既婚・未婚などを記入する。ここまではいい。
  次は「前のドクターの名前」と前住所。これは記入不要だ。
  第3は「親戚(Next of Kin)の名前、関係、住所、電話番号」。これはいざというときの連絡先。小生達には当地に親戚などいないのだから、パスポートに記載した国内連絡先と同じものを記入。
  第4はこのGPに登録してる他の家族名と続柄。
  第5は「家庭状況(Family Circumstances)」。次の4つが示され該当する場合、チェックするようになっている。
  Single parent ?
  Home help services ?
  Looking after aged parent ?
  Meals on wheels service ?
  いずれも何らかの公的補助に関係する内容だ。もちろん我々には該当しないので空欄。
  そして最後がいままでの病気や怪我の履歴(Medical History)。病気や怪我の名称(Previous Illness or Accident)、処置(Treatment)、日付(Date)を書くようになっている。これは「なし」。
  次はウラ
  最初は現在使用している薬(Present Drug Treatment)。薬名(Drug Name)と使用量(Dosage)。これも「なし」。
  第2はアレルギー(Allergies)の有無。これも「なし」。
  さて小生を悩ませたのが次の予防接種(Childhood Immunisation Detail)。次のような項目が列挙されていた。
  1st DPT/Polio/DT
  2nd DPT/Polio/DT
  3rd DPT/Polio/DT
  MMR/Measles
  Pre-school Booster
  それぞれに接種の有無、接種日、接種場所(GP/Clinic/Hospital/School)を記入するようになっている。最近の母子健康手帳には日本名とともに英名も記載されているので、それらが何かについてはおおむねわかったが、結局わからなかったのが一番最後のPre-school Boosterであった。辞書には「2度目の予防注射」と書いてあったが何に対する2度目の予防注射かわからなかったわけである。
  さらに困ったのが、小生やかみさんの接種日、接種場所に関する情報を持っていないということであった。我々の母子健康手帳など持って来なかったので、まったくわからなかった。仕方がないので、その欄に、「日本の規則に従って接種したが日付は不明」と書いて提出することにした。
  もっとわからなかったのが第3の記載事項。これは適当な訳語すら見つからなかった。タイトルは「Cervical Smear and Contraception Details」。その内容は次のとおり。
  Last Smear taken
  Pill
  Coil
  Sheath
  Cap
  Vasectomy
  Sterilised
  これまた、それぞれにイエス・ノー、日付、場所(GP surgery/Hospital/Family Planning)を記入する欄があった。「Last Smear taken」だけは、かみさんが「スメア・テストじゃないかな」といって、これは産婦人科で受けたといったので、かみさんの分にのみその日付を記入。しかしその他は『どうやら家族計画に関する処置らしい』と想像するも結局わからず空欄で提出することにした(いまだにわからないので誰か教えて下さい・・・)。
:この点に関して、スコットランドメーリングリストでお世話になっているマーシー池田さんより、2000年2月8日、ウェッブ上での解説を作成していただきました。ありがとうございました。

  さて12月30日。予約をした時間にGP訪問。この日は患者は皆無だった。
  受付で名前を告げてちょっと待つと女性が来て処置室に連れて行かれた。『女医さんかな』と思ったが看護婦さんだった。処置室の椅子は2脚。看護婦さんはまず小生が持参した書類を受け取って内容チェック。「オーケー」と一言。小生が「予防接種のところがよくわからなかった」というと「国によって違いますからね。日本の規則どおりに受けたのですね。それならいいです」とのこと。あっけない。次に、かみさん、小生、子供の順に問診。看護婦さんは新たな用紙を使って記入している。我々が提出したものを含めて一人に付き合計3枚だ。かみさんと小生は身長体重、そしてかみさんだけは血圧も測定された(たぶん小生の測定を忘れたに違いない)。
「今現在悪いとことはありませんか?」
「ありません。」と小生。
「ご両親(小生の父母)や親戚に、心臓病や糖尿病などの患者はいませんか?」
「おりません。」
「たばこは吸いませんよね?」
「えー、吸います・・・。」
「えっ、タバコを吸っているんですか! おーバッド! お止めなさい。ところでどのくらい?」
「日に15本・・・。」と小声で小生。
「お酒は?」
「飲みます・・・」
「どれぐらい? ハーフパイント、パイントで表現できますか?」
ビールの量ならお任せだ。
「1パイント(a pint)のビールを夕食時に毎晩」と小生(決して胸をはっていえることではないが・・・)。
  その後、看護婦さんは小生とかみさんに対して、「提出はいつでもいいから」といって尿検査の容器をくれた。そしてそれぞれの登録用紙や問診票をそれぞれのファイルに入れて我々に手渡し、ドクターが呼ぶまで待合室で待つように指示した。
  間もなくドクターからの呼び出し。待合室に備え付けのスピーカーからドクターの声。
  ドクターと面談。
  その部屋はそれほど大きくなく(日本でいえば20畳程度だろうか)、ほぼ真ん中にディスク。部屋の壁側には医療器具はほとんどない。普通のオフィスといった印象だ。そこに我々のドクターは座っていた。白衣も着ていない(ただし身なりはしっかりしていて、いかにも紳士然としていたが)。ここでも椅子は2脚。ドクターは小生からファイルを受け取って自ら項目チェック。そしてかみさん、小生、子供の順に問診(女性から始めるというのは看護婦の手順と同じだ)。問診といっても「別に悪いところはありませんね」と確認し、「ありません」と答えると「グッド・グッド・グッド」というだけ(このドクター、やたらと早口。しかし決して聞き取りにくい英語ではない)。そして公式の登録用紙の一番下の担当医師の同意事項欄にサイン。サインが終わると初めて「私は、コスグローブといいます。皆さんの担当医師です。」と名を教えてくれた。
「あなたはリーフレットをお持ちですか。」
「はい、読みました。」と小生。
「この病院やGP制度についてはあのリーフレットを良く読んでおいて下さい。いいですね。」
「はい。」
「さ、これで書類上の手続きは終わりです。グッバイ。」
  これで登録終了。所要時間は40分ぐらいだった。

  ドクター・コスグローブがいったリーフレットとは、最初にこのGPを訪れたときに受付でもらった12ページのリーフレットだ。これには、このGP(The Old Machar Medical Practice)の概要と診療サービスの内容、予約の取り方などが記載されている。このリーフレットによれば、我々が登録したGPには2カ所の診療所と7名のドクター、2名のアシスタントドクター、5名の看護婦から構成されている。またどのGPでも同じだと思うが、患者がGPを訪れるだけではなく、子供のいる家庭には看護婦が巡回するサービスもある(我々を問診した看護婦もこれについて触れていた)。

  1月に入って、小学校の冬学期が始まるとすぐ、GPに登録したことと担当医を学校に伝えた。これで一安心。

  さて、昨年末から今年に入って英国ではFLU(インフルエンザ)が猛威を振るった。政府の発表では10万人中450人以上が罹患しているという。最初にGPを訪ねた時の患者さんはその多くがFLUであったかもしれなかった。あまりに患者が増え、しかもその症状がGPの手に負えるものでなくなったため、GPはNHS病院に患者を送り始めた。今度はNHS病院に患者が溢れ、ベッド数が足りなくなり「急患以外お断り」という病院まで出てきたという。
  一方、ヘイグ保守党党首は「プライベートな保険に入ってプライベート治療を受けましょう」といい始める始末。NHS制度は国の負担が大きくて英国政府も頭を悩ませている制度である。就任1,000日を超えたブレア首相(労働党)も、本音は保守党党首と同じかもしれない。

  そこに、英国で所得のない、従って税金を支払わない日本からの家族がまた登録をしたのである。我々にとっても、英国政府にとっても我々がGPを利用しないことがお互いの幸せに違いない。[28/Jan/2000]


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