Prologue


  1999年8月1日、KLM870便は新千歳空港を定刻の午後1時50分に離陸、一路オランダスキポール空港に向けて飛び立った。
  そして現地時間1日午後5時8分(日本時間2日午前12時8分)、快晴のスキポール空港に到着。しばしのトランジット時間を過ごしたのち、午後7時40分(日本時間2日午前2時40分)、KLM2067便(Air UK)は、D23ゲートからアバディーン空港に向けて離陸。そして午後8時7分(日本時間2日午前4時7分)、まだ太陽が高いアバディーン空港に到着した。

  アバディーンが北海油田の基地であること、Granite Cityといわれるように花崗岩の産地であること、1年のうち10ヶ月はダウンジャケットが必要であることなど、アバディーンに関する知識は持ち合わせていたものの、それ以上の知識は無かったといってもいい。しかも、アバディーンは、日本人にとってマイナーな都市である。まして、多くの観光客が花のパリ、霧のロンドンに憧れるように、アバディーンに憧れを持っていたわけではない。

  そんなアバディーンをなぜ研修の地に選んだのか。

  この手の話は話せば長くなる。そして、読む側にとっても退屈な話でもある。しかし、「なぜアバディーンか」を多少なりとも話しておく必要性も感じている。というのも、研修が決まった時、多くの方々からその理由を聞かれたからである。 

  手短に経過を説明すれば次のようになる。大学院生時代、現在の研究テーマ(付加価値会計)の勉強をしていた時、当時アバディーン大学のモーリー教授(Morley.M)の著書を読んで多くの示唆を受けた。博士課程在学中、指導教授の誘いを受けて、70日間ロンドンに滞在。その時、スコットランドへの小旅行を計画するも、グラスゴー、エジンバラまでは足をのばせても、列車の旅では、アバディーンまではあまりに遠く断念(LondonーAberdeen間に定期便が飛んでおり、90分もかかることを知ったのは研修が決まってからであった)。就職後、一冊の小冊子を入手する。その小冊子の著者こそ、今回小生を受け入れてくれたアバディーン大学のエラッド博士(Dr.C.Elad)が書いた論文であった。国外研修の申請に際し、真っ先に候補に浮かんだのがアバディーン。受け入れの可否についてエラッド博士にE-Mailを送ったのが1998年2月。すぐにOKのリプライ。そしてアバディーン行きが具体化したのである。

  つまりは、20年近く前に読んだ本の著者がいたところであり、最初の渡英で行けなかった場所であり、偶然入手した論文の著者が在職している場所がアバディーンであったのである。
(ちなみに、モーリー教授は交通事故のためアバディーン大学を早期に退職し、現在はロンドンに在住であることをエラッド博士から聞いた。)


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