29.「温泉気分」後日譚

  バスタブに穴が開いて水漏れがして大騒ぎをしたのは昨年の10月末のことであった。
  その後、3度ほど業者が来てバスタブとバスルーム全体をチェックし、「バスタブを取り替えた方がいいですね」といったのは11月のことであった。その業者から、バスルームの3つの構成要素、つまりバスタブ、トイレそして洗面台は同じ色のもので揃えるのが当たり前だと教えられた。我々が借りている家のバスルームの構成要素の色は時代遅れですでに生産されてなく、バスタブを取り替えるということは、トイレも洗面台も一緒に取り替えることを意味するともいわれた。

  当初、「新しいバスタブが使えるぞ」と喜んだものの、なかなか業者からの次の連絡がこなかった。この間、風呂に入れなかったかといえば、決してそうではなかった。バスタブの底に開いた小さな穴が水漏れの原因だったので、そこをビニールテープでふさいでしまえば元通り風呂を使うことができたのである。

  最後の業者が来てから1ヶ月過ぎても2ヶ月過ぎても連絡はなかった。もちろん不動産屋に催促することも考えた。しかし、自分が大家なら、テナント(借り手)が住んでいる時にあえて新調しなくても、そのテナントが出ていったときに新調して、次のテナントが契約するときに、「風呂を新調したんですよ」といって家賃をつり上げた方がいいだろうな、と考えたりすると、催促する気持ちが強くおきなかった。もちろんそれは冗談としても、今までと同じように風呂に入れるということ、どうせ長く住むわけではないということが、催促の気持ちを萎えさせた。

  そんなこんなで、不動産屋への最初の連絡から3ヶ月以上過ぎた2月中旬、不動産屋から1本の電話が入った。
  「こちらスミス・アンド・サザーランドのシーラです。」
  「ハーイ」と小生。
  「バスルームの工事に入ります」とシーラ。
  『おっ、やっと始まるな』と思った。もしこれが日本なら「やっと特別注文の新しいバスタブが完成しましたか」と皮肉をいっていたところだが、何しろ英語ではそんな皮肉も出てこない。第一、今でも電話口で2度話してもらわないと相手の意味が理解できないのだ(ホントに情けない)。
  「予定ではサイディに工事をしますがいかがですか」とシーラ。
  「サイディ?」と小生。
  「そう、サイディ」とシーラ。
  『サイディって何?』
  小生の頭の中で単語数の少ない英和辞典がめくられる。『曜日の一つにはサイディはないしなあ』
  小生の辞書にサイディの文字はなかった。
  「すいません、サイディが理解できません」と小生。
  それを聞いたシーラは苦笑しながら、今度はゆっくりと「工事をサイディに始めます」といった。
  小生、いずれにしても工事を始めるといっているのだから何でもいいかと思い、「わかりました」と答えて受話器を置いた。
  受話器を置いて数分後また電話。
  「こちらスミス・アンド・サザーランドのシーラです。」
  「ハーイ」と小生。
  「さっきは間違っていました。工事はサイディではなくサースディからですがいいですか?」
  「もちろんです」と小生。
  するとシーラは「バァーイ」といって電話を切った(この「バァーイ」のイントネーションを文字で表現できないのは惜しい。当地の方々特有の、気持ちのいいイントネーションだ)。
  ここで初めてサイディが曜日の一つでありアバディーン訛りではなかったかと気付いた。シーラはフライディといったのだ。それが小生にはサイディと聞こえたに違いない(ということにしておこう)。

  こうしてバスルームの工事が始まることになった。
  木曜日の朝、朝食を食べているところに玄関のブザー。時計を見るとちょうど8時。
  「マイケル・カーの者です。バスルームの工事に来ました。」
  マイケル・カー(Michael Karr)は以前にバスルームをチェックしていった業者だ。彼は2階にあるバスルームに入ると早速作業を開始した。
  それにしても朝8時に来るとは早過ぎる。我が家ではまだ朝食の真っ最中で、これから歯磨き、身支度と、バスルームが忙しくなく時間だ。そう、バスルームには、バスタブの他に、トイレと洗面台があるのだ。そのバスルームがマイケル・カーの職人さんに占拠されてしまったのである。
  ほどなくしてトムソン(N.A Thomson)という業者もやってきた。彼もバスルームに入り、そして小生のところに来て、「水の元栓を閉めて工事します」と告げた。

バスタブの下

  今度は水も使えない状態になった。
  『こんなことになるなんて知らなかった。だったらどうしてシーラは電話で教えてくれなかったのだろう』と思っても後の祭り。

  さて困ったのはトイレと水だ。水を飲まなければトイレにも行かない、なんてことはなく、正常な体ならばトイレに行きたくなるものだ。近所には公衆トイレもない。子供達は学校に行っているので問題はない。家にいる小生とかみさんが困ることになった。
  そこで、何か用を見付けては「アスダ(ASDA)に行って来る」ということになった。アスダはスーパーマーケットだ。そこには顧客用トイレがあった。
  水も出ないので、アスダでミネラル・ウォーターも調達した。当地では、ミネラル・ウォーターは格安で、アスダでは5リットルで99pのものがある。これを1本調達した。

長いこと、お疲れさん

  二人の職人さんは、黙々と作業を進めている。マイケル・カーの職人さんは床まわりを張り替えている。トムソンの職人さんは、古いバスタブ、トイレ、洗面台をはずし、新しいものに取り替えている。11時頃にそれぞれがどこかに行き、30分もすると帰ってきて、また黙々と仕事。これが日本でいう「職人さんの10時の休憩」らしかった。その後も決まって11時頃に作業を中断して休憩していた。『昼食はとらないのだろうか』と思っていると、職人さんは1時過ぎに自分の自動車に戻ってサンドイッチを食べていた。あとから思えば、キリのいいところで昼食を取っているようだった(それが2時過ぎのこともあった)。それが終わると再びバスルームに入り黙々と仕事。そのあとは休憩などなし。その仕事ぶりを見ていると、日本の職人さん以上に黙々と仕事をするといった印象だ。

  4時過ぎ、マイケル・カーの職人さんは、床まわりの張り替えが一段落したのか「明日また来ます」といって帰っていった。一人残されたトムソンの職人さんは、黙々と取替作業をしている。彼がバスタブとトイレを設置し終わり、「洗面台は明日取り付けます。トイレが使えますよ」といって帰ったのは午後5時をまわっていた。


2日目の作業終了

トイレもきれい


  翌日、マイケル・カーの職人さんは8時に来宅。トムソンの職人さんは9時に来宅。この日はトムソンの職人さんは、早々に洗面台を取り付けて帰っていった。マイケル・カーの職人さんは、バスルームの隣のベッドルームの床にまで水漏れの影響が出ていたため床の一部を張り替えて、「来週の月曜日にまた来ます。風呂には入れますよ」といって5時頃帰っていた。
 作業3日目。マイケル・カーの職人さんは例によって朝8時に来宅。この日はバスタブのまわりのタイル貼りと最後の点検。1時半、すべての作業を終えて職人さんは帰っていった。こうして、わずか2日半の作業を経て、バスルームは見違えるようにきれいになった、ただ一点を除いては。

  「温泉気分」のページでも触れたことだが、当地のバスルームにはカーペットが敷いてある。今回の作業で古いカーペットが外された。そのカーペットを見た職人さんは「これ、どうする?」「捨ててもいいなら持って帰るよ」と提案した。それだけ汚れていたということだ。しかしこの家のテナントである我々は、基本的には入居したときと同じような状態で退居しなければならない。そうだとすれば、いくら汚れているカーペットでもそのまま残しておくのが筋である。とはいえ、カーペットのウラには一面シミやらカビのようなものが付いていて、それを見た途端、自腹を切っても新しいカーペットに替えたくなるほどだった。
  『どうしようか』
  あれこれ考えあぐねた末、新しいカーペットを購入することにした。ということは、テナントが新しいカーペットに替えるという意思決定をしたことになるのだから、費用はテナントが負担することを意味する。

  当地にはカーペット専門の大型店がたくさんある。店内には見たこともないような大きなロール状のカーペットがデンと置かれ、それを客の注文に合わせて切り売りするようであった。最初に見た専門店のカーペットはとても購入できるような金額ではなかった。そこで、何かとお世話になっているDIY専門店のB&Qに行ってみると、ナント、バスルーム・カーペットという代物が売られていたのである。『なるほど、さっき見たのはリビングルームなどに敷くカーペットだったんだ』と合点がいった小生は、ちょうどいい大きさのバスルーム・カーペットを購入した(150×180センチで£22程度)。このカーペットはポリエステル製で、水はけも良く、しかも洗濯可能(でもどうやって洗濯するのだろう?)。何より「DIYが簡単」という誘い文句につられてこれを購入した。
  さて次の作業は、バスルームの床の形に合わせてカーペットを成形することであった。専門業者に頼めば人件費がバカ高いという情報を得ていたし、当地は何でも自分でやる国である。失敗を覚悟の上で寸法を測り、カーペットを切り始めた。自慢ではないが、小生、カーペットを張る作業など今までしたことはない。

見よ、この美しさ!

  作業開始から2時間後。初めてにしては、そして小生がやった仕事にしては上出来の仕上がり具合だった。ぴったりフィット。それにしても当地に来て、ガソリンは自分で入れるし、芝刈りをし、窓拭きもし、さらにカーペットを張ることまで経験した。『小生、何しにアバディーンに来たんだろう?』と思わないでもないが、一方で、日本では経験できないことばかりなので面白さの方が優っているし、いずれも何となくうまくいってしまうものである(帰国後、こんな小生の自慢話の犠牲者が何人か出るだろう)。

  初めての不動産屋への連絡から3ヶ月半後、晴れて我が家のバスルームは、見違えるようなバスルームに生まれ変わったのであった(やれやれ)。[23/Feb/2000]


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