クレイギーヴァー城(Craigievar Castle)

  グランピアン地方にあるお城の中でもっとも遅く開館するお城がこのクレイギーヴァー城である。5月1日が開館日である(当地は、5月1日はメーデーでバンクホリディ。つまり休日)。

  このお城、我々からすれば、5月1日の開館ということで、待ちに待ったお城ということになった。

  クレイギーヴァー城へは、アバディーンからは二つのルートが考えられる。一つは、A944をアルフォード方面に向かい、アルフォードを越えたところでA980に乗り換えて(とはいっても道なりなのだが)お城に入るルート。もう一つはアバディーンからA93でディーサイドを走り、バンコリーの町からA980に乗り換えるルート。アバディーン市街のどこから出発するのかによってどちらのルートを採るか決まる。我々の住んでいる地域からは、A90からA944に入るルートの方が近いので、前者のルートを通ってクレイギーヴァー城を目指した。

  自宅からお城までは37.1マイル、約55分の道のりである。このお城も、他のお城と同じように、『どうしてこんな辺鄙なところにお城なんか建てたのだろう』と思わずにはおれないほどの場所にある。A980からお城に入る道は一本道ながら起伏もあって見通しは悪い。しかも自動車一台通るのが精一杯で、所々に対向車とすれ違うための待避所が設けられている。そんな道なので、バスの乗り入れはできないことになっている。


お城への道は細く長い

  駐車場に車を停めて、お城に通じる小道を歩く。なかなかロマンチックな小道だ。ほんの2〜3分歩くと、前方にお城が見えてくる。ピンクの外壁が特徴だ。このお城は、お城とはいっても、ファイビー城やフレイザー城などとは違って、むしろコルガルフ城のようなタワーハウスと呼ばれるお城のようである。とにかく建物の敷地面積はそれほど広くはないながら、お城全体がタワーのように背が高い。


入り口への道はロマンチック

  早速、入り口からお城の中に入ろうとすると、中から係りの男性が出てきて、「もうしばらくここで待っていて下さい」といわれた。
  入り口の際にあった立て看板を見ると、このお城は、ガイドツアーだけのシステムで勝手に見て回ることができないことになっていた。その看板にはそのツアーはおおむね8名程度が集まり次第、15分間隔で始めるとのことだった。

  待っている間、お城の周囲を見回す。すぐ近くに石でできた、なにやら良くわからない小さな建物があり、そこには横に続く石垣があって、その一角が門のようにくり抜いてあった。『もしかしたらここが元々の城への入り口だったのかな』などと思っていると、中から係員が出てきて、「さあ、順番に入って下さい」といわれて中に入った。感心したことは、我々のあとに訪れた数組の見学客が待っていたのだが、特別にキューイング(順番待ち)してなくても、我々を先に招いてくれたことだった。

  入り口を入るとまず入場料の支払いディスクがある。例によって仮会員証を提示する。すると、地下のキッチンで待つようにと指示された。我々以外には、初老のカップルが2組、我々と同じツアーに参加することになった。

  さて、ツアーは、1階から5階まで、順次、女性の係員がそれぞれの部屋の由来や使われ方、お城の構造などを説明してくれた。これまで見てきたNTS管轄のお城は、どこもおびただしい数の調度品があり、沢山の肖像画があり、それはそれで楽しめたのだが、何かわざとらしい感じがしないでもなかった。壁などは最近修復したような跡ばかりのようなものもあったし、どれもこれも同じように見えてきたりした。ところが、このクレイギーヴァー城は、内部は狭いながら、とにかく天井の彫刻や、壁の彫刻が素晴らしかったし、しっとりとした部屋の作りも見事だった。興味を引くような調度品などがさりげなく置かれていたが、それがまた何ともいえない雰囲気を醸し出していた。
  そして何より、小生の興味を引いたのが係員の次のような解説だった。
  「このお城は、17世紀のお城ですが、このお城の主はウィリアム・フォーブスで、彼のお父さんの名もまたウィリアム、お母さんはエリザベスといいまして・・・。」
  『ウィリアム・フォーブス?』
  この名前は、小生の脳裏にしっかり刻まれている。というのも、我々が最初に訪れたお城であるトルクホン城は、ウィリアム・フォーブスによって現在まで残っている形に整えられたのだし、そのウィリアム・フォーブスのお墓まで見に行っていたのである。そのフォーブスの奥さんはエリザベスだ。我々が知っているフォ−ブスは16世紀末に亡くなっているので、クレイギーヴァー城の主はその息子ということになる。
  『もしそうだとすれば、なぜフォーブスの息子はトルクホン城ではなくこのクレイギーヴァー城に住んだのだ?』
  『トルクホン城とクレイギーヴァー城にはどんな関係がある?』
  確認したいことはあったのだが、何しろ咄嗟に言葉が出てこない。頭の中で整理するのが精一杯といったところだ。係員の説明が細かいところになると要領を得ず、質問しようにも言葉が出なかったのであった。この時ほど、もっと英語ができればなあと思ったことはなかった。

  それにしても、十分楽しんだことには変わりはなかった。
  まずホール。暖炉の上に施された、紋章の彫刻の大きさと素晴らしさに見とれてしまう。係員はここで、ここのお城の最後の城主、ウィリアム・フランシスは第1次世界大戦後日本に渡り、日本の陸海空軍のアドバイザーとして活躍したと説明した。その時、一緒にまわったツアー参加者の一人が、小生に向かって「日本から来たのか」と尋ねてきた。小生が「そうです」ということ、彼は、ホールの片隅にあったガラスのふたが付いた小箱を指差し、「ホラ、ここに日本語が書いてあるし、日本政府から贈られた勲章もあるよ」と教えてくれた。なるほど、そこには確かに日本語が書いてあったし(大日本何とかと書いてあったが忘れてしまった)、勲章もいくつか見えた。
  『ここにも日本に渡ったスコットランド人がいたのか』
  ここの住人と日本がつながっていると思うと、何故か、いにしえに思いを馳せてしまうから不思議だ。どうやら、このウィリアム・フランシスは、とくに航空学の専門家であったようだ。

  階段をのぼり、2階へ。ここにはベッドルームがあった。
  そして3階。この3階にはクィーンズ・ルームがある。ここはシックな中にも豪華さが見て取れる部屋だったが、その名の通り、スコットランド女王メアリーにちなんで名付けられた。驚いたことは、このお城には、多くの女王が実際に訪れているということだった(係員はその名前を挙げて説明した)。またこの階には、何とも面白い部屋があった。そこは暗く狭い部屋で、係員が懐中電灯で光を当てながら解説した部屋であるが、一見、何ということはない壁板にカーテンが付けられていた。解説では、この部屋はハウスキーパーの部屋だったというが、そのカーテンの中にはベッドがあったという。つまり壁の中をくり抜いた寝床だったわけだ(ちょうど押入の中に寝ているような感じだ)。それが第2次世界大戦後は、その場所に風呂を置いたといって、そのカーテンを開けると、たしかにユニットバスが置いてあった。そこにはたしか、湯沸かしもあった。この湯沸かしは、その部屋の釜戸の上に大きなタンク状の容器を置いてお湯を沸かし、それを階下のキッチンに供給していたという。また今でいえば、セントラル給湯のような役割もあったという。
  4階は子供部屋やブルールームといわれる寝室があった(フレイザー城にもブルールームという部屋があったが、部屋に色の名前を付ける習慣があったのだろうか)。
  最上階の5階は、ロングルームといわれる細長い部屋があった。そこに飾ってあった、ストッキングの形を整えるために、洗濯したあとにストッキングの中に入れる、木でできた道具が興味を引いた。この部屋は、召使いたちも使ったり、長く大きい洗濯物を干すために使われたようだ。その部屋の隣にはメイドたちの部屋もあった。

  最上階まで見た我々は、今度は、のぼってきたものとは違う、かなり急で狭い螺旋階段を下りる。我々がのぼってきた階段はこのお城の主やお客さんが利用したもので、下りている階段はメイドたちが利用したものだという。これは1段1段の段差もあり、下りるのはしんどい。

  螺旋階段を下りて出てきたところは、何と、最初に見たホールであった。最初にホールに入ってきたとき、何かいわくありげな扉には気付いていたが、まさか、そこが階段を通して各階とつながっているとは思わなかった。係員も、最初はその扉の解説をあえてしなかったわけだ。

  その後、改めて地階のキッチンを見て、出口へ。
  係員いわく、「このお城には売店はありません。絵はがきぐらいならお買い求めいただけますが。」
  というわけで、我々も外へ。所要時間は50分だったがアッという間の見学だったように感じた。

  お城の周囲は、芝が広がっていたが、とりたてて庭園と呼べるようなものはないようだ。ただ、ここからの眺めはのどかですこぶる良かった。


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