誰が、いつ、何のために?−古代史トレイル 

  1月のある日、ぼんやりとAA発行のロードアトラス(道路地図)をながめていると、アバディーン空港の北2マイルに、石をかたどったマークとともにDyce Symbol Stonesの文字が見えた。凡例を見るとそのマークは先史時代の遺跡(prehistoric monument)をあらわすらしい。Dyceはその地域の地名だから、「ダイスの石の遺跡」がそこにはあるということだ。『こりゃ、面白いな』ということで、ドライブがてら出かけてみたのが古代史巡り(Ancient Trail)の始まりだった。

  ロードアトラスをよく見てみると、アバディーンシャー(アバディーン郡)の、わりと近いところにシンボル・ストーンやら、ストーン・サークルがあることを示すマークがある。シンボル・ストーンは初めて聞いたが、ストーン・サークルは馴染みのある言葉だ。もう20年以上も前、NHKが『未来への遺産』という番組(N特だったかな)を放送していた。その中で、ナスカの地上絵などとともにストーン・サークルを紹介し(思い起こせば確かに英国のどこかのストーン・サークルだった)、子供心に『こんなものなぜ作ったんだろう』と不思議に思ったものである(ちなみに、『未来への遺産』のサブタイトルが「誰が、いつ、何のために」だった)。それが自動車で行ける距離に点在しているのである。そこで、わりと穏やかな1月の日曜日、古代史巡りに出た。

  朝10時、自宅をスタート。まず目指したのはデヴィオット(Daviot)にあるローンヘッド・ストーン・サークル(Loanhead Stone Circle)。自宅からはA90からA96に入り、バンクヘッド(Bankhead)のランダバウトをA947に入る。あとはオールドメルドラム(Oldmeldrum)からA920に入ればローンヘッド・ストーン・サークルに着くハズであった。ところが、自宅から10マイル、約25分走ってニューマッハー(Newmachar)に入ったとき、前方にグランピアン警察のパトカーが止まっているのが見えた。そして徐行しながらさらに近づくと前方通行止め。2台の乗用車が衝突して道路が封鎖されていたのである。「めずらしいね。事故があるなんて」などと話をしたが、前方通行止めでは先には進めない。我々と同じように数台の自動車のドライバーが地図を広げている。「仕方ない。予定変更。A96に戻ろう。」
  来た道をA96に戻り、一番遠いピカディー・シンボル・ストーン(Picardy Symbol Stone)を目指した。

  A96からインバルアリー(Inverurie)を越え、B992に入り、インス(Insch)という小さい町を目指す。すると小高い丘の上に明らかに石でできていると思われる大きな門のようなものが目に飛び込んできた。「あれじゃないか。」「あれだったらすごいぞ。」と期待しながら自動車を進めたが、ピカディー・シンボル・ストーンを示す標識はその門のようなものとは異なる方向に向かっていた。細い道を所々にある標識を頼りに行くと、道路の右側に小さな標識。「ピカディー・シンボル・ストーンだ。」
  慌てて自動車を路側に停め、右側を見ると、「あった!」

Picardy Symbol Stone

  11時18分。ピカディー・シンボル・ストーンは、道路から2メートルほどじゃがいも畑に入ったところにあった。一見すると何の変哲もない石だが、ちょっとぬかるむ畑を歩き近づいてみると、石に何か刻まれているのがわかる。石の高さ2メートル弱。柵で囲まれた石のそばに由来が記されたプレートがある。そこには石に刻まれた模様が示されている。丸い形や動物のような形が見える。プレートによればこのシンボル・ストーンは6世紀頃のものらしい。石のまわりは畑だが、石の東側を除いて遠くまで見渡せる。こんな平地に何の目的があってこんな石を立てたのだろうか。
  このシンボル・ストーンから、ずっと遠くの丘に、最初に見た大きな門が見える。我々はその石門にも興味をそそられた。地図を見るととくにそれについてはマークもない。ただ地図ではその辺りにはダニディー(Dunnideer)と書いてあり、丘の要塞(Hillfort)を示すマークがある。

  ピカディー・シンボル・ストーンに10分ほどいて、ダニディーを目指した。丘の周囲の道からはその石門はよく見えるのだが、いざ入り口を探そうと思うとなかなか見つからない。インスの町をあちこちまわって、20分後ようやく丘のふもとに到着。そこにはDunnideer Hillfortsのプレートがあり、The Stone Circleの文字も見えた。そこからはあの大きな石門はまったく見えない。ただ丘の上に続く道がそのプレートのそばから始まっていた。「登ろうか。」「行ってみよう。」ということになり、自動車をそのプレートのある空き地(駐車場なんだろうね)に置いて丘歩き。最初は簡単に見えた登山(登丘?)も中腹から道らしい道がなくなり結構しんどくなる。それに引き換え風景は絶景に変わる。青々とした草の上を、うさぎのフンに気を付けながら頂上を目指す。どこまで行ってもあの石門には着かないような気がしてきた頃、先に行っていた子供達が「あったよー」と叫んだ。

Dunnideer Hillforts

  丘を登りはじめて15分後(実際にはそれほど歩いていなかったわけだ)、頂上に到着。そこには、遠くから見たあの石門がそびえ立っていた。その高さゆうに10メートルは超える。あとでもう一度プレートを読んでわかったことだが、その石の門は13世紀に建てられた城の一部だった。しかしそのまわりには、小さな石で作った塚(といっても高さ30センチ程度)があって、もしかしたらそれがストーン・サークルの一部かもしれなかった。
  それにしても、ここから見る眺めはすこぶる良かった。なだらかに広がる丘陵、草をはむ羊たち、ひとかたまりになっている石造りのインスの町並み。丘のすぐ下にはゴルフ場。ゴルファーの姿が小さく見える。1月だけあって、さすがに吹く風は冷たかったが、息を切らして登ってきた甲斐があった。行き帰りとも、一人ずつの別の女性とすれ違い。こんな季節でもいるもんだ。我々だけではない。
  帰りは登りより簡単で10分ぐらいで駐車場へ。12時25分。サンドウィッチの昼食。すっかり冷え切った体は昼食をとったことで元気になったようだ。12時48分、次の目的地、メイデン・ストーン(Maiden Stone)を目指して車のエンジンをかけた。

Maiden Stone

  Dunnideer HillfortsからB9002を走り、ピッカプル(Pitcaple)という町(集落?)へ。そこまでくるとメイデン・ストーンを示す標識が道ばたに立っていて我々をメイデン・ストーンに導いてくれる。1時2分、道路の右側にメイデン・ストーンが見えた。この遺跡もまた、ピカディー・シンボル・ストーンと同じように、自動車がかろうじてすれ違えるような細い道の道ばたにひっそりと立っていた。この石は、ほかの石と違って8〜9世紀の初期のクリスチャン・ストーンであるという。その石の面には、櫛や鏡のような形が彫ってあった。その高さは2メートルは超えていた。
  このメイデン・ストーンもまわりに柵はあったが、その柵のまわりは畑が広がっていた。よっぽど注意をして見つけない限り、通り過ぎてしまうような場所にある。このメイデン・ストーンには5分程度いた。

  地図を見ればメイデン・ストーンの前の道を道なりに進めば次の目的地、イースト・アクホリシス・ストーン・サークル(Easter Aquhorthies Stone Circle)がある。待望のストーン・サークルだ。道なりに自動車を進めた。
  するとほんの10分も走らないうちに、道の左側の畑の中に輪になった石が見えてきた。しかしそこに通じる道はない。「おかしいなあ。」
  何とかそのストーン・サークルに近づこうとして、A96に戻ってもう一度同じ道を走らせる。だが結局、そのストーン・サークルには近づけなかった。道ばたに車を停めしばし遠くから眺める。「残念だなあ。」「写真ぐらい撮っていこう。」「スケッチしよう。」「あれはイースト何とかストーン・サークルだよね、やっぱり。」

  仕方なく、そのストーン・サークルには近づけず、1時27分、次の訪問地、ブランズバット・シンボル・ストーン(Brandsbutt Symbol Stone)に向かった。ブランズバット・シンボル・ストーンは、A96を横断してインバルアリーの近くにある。A96を横断するランダバウトを越えるとすぐにブランズバット・シンボル・ストーンを示す標識が見えた。その標識のとおりに車を進めると、閑静な住宅街の中に入った。『道を間違えたかな』と思った矢先、右手の公園のそばにブランズバット・シンボル・ストーンが見えた。1時35分着。

Brandsbutt Symbol Stone

  ブランズバット・シンボル・ストーンは、そこにあったプレートではBrandsbutt Pictish Stoneと表記されていた。つまりはブランズバットのピクト人の遺跡という意味だ。ピクト人はスコットランドの有史以前に住んでいた先住民らしい。住宅街にあるこの石は4〜9世紀のものらしい。石面にはへびの絵などが見えた。しかし、こんな遺跡がちょっとした公園の一角にあり、そのまわりは住宅というのも何とも面白い風景だ。
  この頃になると、風が冷たく感じられ、ここでもほんの5分程度滞在して出発。

  次は、朝最初に見るはずだったローンヘッド・ストーン・サークルに向かうつもりだった。インバルアリー方面に向かい、B9001に入ろうとしていると、「イースト・アクホリシス・ストーン・サークルまで2マイル3/4」の標識。「あれ? やっぱりさっき見たストーン・サークルは別のものだったんだ。」

  そこで、さっき来た道を引き返し、A96のランダバウトをまたまた横断して田舎道へ。この道は対向車とすれ違うことはできない。対向車が来れば、Passing Placeと書かれたわずかに道幅が広くなった場所でどちらかが待っていることになる。小生も2、3度対向車と向かい合ったが、こちらがPassing Placeで待とうとする前に相手が先に待っていてくれた(ホント、当地のドライバーは譲り合いの精神がいっぱいだ)。15分も走らせると、イースト・アクホリシス・ストーン・サークルの駐車場。ストーン・サークルにはここに自動車を停めて、徒歩で向かう。ほんの5分程度歩くと、そのストーン・サークルは見えてきた。

  このストーン・サークルを見たときは、何ともいえない感動を憶えた。例によってストーン・サークルのまわりは平地で、周囲が遠くまではっきりと見渡せる。そんな中、11個の石が、見るからに正確に輪を作っている。これは4,000〜5,000年前に作られたものであるという。一カ所だけ、とりわけ大きな石が3個かたまって置いてある。1個は横に寝かせてあり、その両端に大きな石が立てかけられてる。いかにも意味ありげだ。案内のプレートには、考古学者の見解として、その石は月の位置を測定したものであると書かれてある。ま、この際、そんなことはどうでもいい。興味は、いったい誰が、こんな大きな石をここに運んできたか、それを知りたい。どの石も腕をまわして抱えきれないほどの大きさだ。しかもサークルになっている。「何なんだろう、これは。」

       
Easter Aquhorthies Stone Circle

[イースト・アクホリシス・ストーン・サークル再訪]
  7月の中旬、イースト・アクホリシス・ストーン・サークルを再訪した。この時は快晴の空。ストーン・サークルに向かう沿道にはアザミのつぼみも見えていた。前回とは違ってのどかな風景がストーン・サークルを取り囲んでいた。


まだ菜の花畑は黄色。その手前で牛が休んでいる。

  1時55分、イースト・アクホリシス・ストーン・サークルを出て、今日の最後の訪問地、ローンヘッド・ストーン・サークルに向かった。先ほど来た道をまた戻る。A96のランダバウトを越えてB9001に入り、デヴィオットへ。20分弱でローンヘッド・ストーン・サークル到着。ここは、夏場はキャンプ場になるところのようだ。駐車場に車を停め、林の中をちょっと歩いて、その林が途切れたところにローンヘッド・ストーン・サークルはあった。

Loanhead Stone Circle

  このストーン・サークルもまた、先ほど見たイースト・アクホリシス・ストーン・サークルと同じような大きさ。直径20メートル程度だろうか(いやもっと大きかったかもしれない)。しかも一カ所の石だけがとりわけ大きく、その両端に別の石が立てかけられているところまでそっくりだ。4,000〜5,000年前に作られたもので、月の位置を測定したものであるということも同じ。ただし、ここの横たわった石は2枚の平べったい石だ。しかも、ここのサークルの中には、小さな石が無数に敷き詰められている。
  案内のプレートの解説もイースト・アクホリシス・ストーン・サークルとほぼ同じ。しかし、ここには、ストーン・サークルの右隣りに、それほど大きくはない石(高さ20〜30センチ)のサークルもあった。案内プレートによれば、ストーン・サークルを作ったあと、BC1,500年頃に使った火葬場跡だという。実際に、このサークルの中心から石のアクセサリーをした人骨が発見され、さらに30数体の人骨も見つかったらしい(そのうち5〜8歳の子供の骨も数体見つかった)。まったくミステリアス。

[ローンヘッド・ストーン・サークル再訪]
  ここも、7月の中旬、イースト・アクホリシス・ストーン・サークルと同じ日に再訪した。7月の下旬といえども訪れる者は少なく、森に囲まれたストーン・サークルは静寂の中にあった。

  こうして最後の訪問地をあとにして、A96からA90に入り、自宅に戻ってきたのは午後3時30分。走行距離は109.8マイル(176q)だった。

  さて家に戻って夕食時に「日本に帰ってからの宿題ができたね」と話し合ったことがあった。それは次のようなことである。
1.そもそもピクト人とはどんな人々だったか?
2.グランピアン地方に結構な数の古代のストーンがあるということは、この辺にピクト人が多く住んでいたのか?
3.一般的に、シンボル・ストーンにはどんな意味があったのか。そしてその種類は?
4.ストーン・サークルは月の測定をする道具だという説があるが、それはどうやって行ったのか? そしてその他の説にはどのようなものがあるのか?

  かつて、奈良を訪れ、亀石や酒舟石、あるいは石舞台を興味深く見たことがあった。石舞台は蘇我入鹿の墓(?)だという説もあるようだが、それらの石の遺跡も誰がいつ何のために作ってそこに置いたのか、謎が残されている。今回まわった石の遺跡も同じだ。
  「やっぱり、宇宙人の仕業かなあ。」
  これが夕食後の我が家の結論であった。


Historic Scotland

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