私のDVDコレクション

第1回 The King of Kings

監督: セシル・B・デミル(Cecil B. DeMille)/脚本: ジーニー・マクファーソン(Jeanie Macpherson)/1927年 アメリカ作品/サイレント
淀川長治総監修『世界クラシック名画100選集』86
H. B. Warner Rudolph Schildkraut Joseph Schildkraut Jacqueline Loean Viola Louie Kenneth Thomson Julia Faye M. Moore Montaeu Love Victor Varconi Georee Sieemann William Boyd Sidley D'Albrook Alan Brooks Ernest Torrence ※写真をクリックすると、関連箇所にジャンプします。

はじめに

聖書を初めて読んだとき、といっても四福音書だけなのですが、記述の食い違いや意味不明なことがあって、何をいっているのかよくわからないというのが、正直な感想でした。 聖書の記述の中には、現代の我々からすると明らかに言葉足らずという表現がかなりあります。また、その文章が書かれた政治的な目的などもあいまって、わかりづらくなっているものと思われます。
文字で書かれた情報は、実はそれほど正確には伝わらないということを納得させる逸話があります。旧約聖書に登場するモーゼは、西欧の彫刻や絵画では、角(つの)の生えた老人として描かれていました。これは、彼が人間を超えた鬼のような妖怪だったということではありません。「モーゼは、顔が輝いていた」という意味の旧約聖書のヘブライ語の表現が「モーゼには角が生えている」とラテン語に直訳されていたのが原因だそうです。(RYUと万利子のおもしろ人間学、バックナンバー3月6日
誤訳だとわかるのならまだ良いほうで、意味不明のままの言葉は少なくは無いでしょう。逆に、言葉の表現の曖昧なところに、読み手の想像力を働かせて、つじつまの合うようにいろいろな仮説を立ててみるというのは、面白いことです。キリスト・イエスを扱った映画は、言葉を映像で表現するということ、また観る者にとってわかりやすいことという条件を満たすために、聖書の曖昧な表現に対していろいろな解釈をしています。なるほどと思うものや、浅薄と思われる解釈まで様々です。そんな訳で、新しい解釈を求めて、キリスト・イエスを扱ったDVDを集めるようになってしまいました。現在、イエスが登場する映画を10本ほど所有しています。読者のみなさんがキリスト教に関心をもっていただくきっかけとなるように、これらの映画を紹介というか、感想を披露していきたいと思います。筆者は聖書研究の専門家ではありませんし、聖書を隅から隅までちゃんと読んだこともありません。ですから、筆者が映画制作者の勝手な解釈と思い込んでいたことに、実はちゃんとした根拠があったということも多々あるでしょう。そのような場合の読者のみなさまからのご指摘は大歓迎です。コメント掲示板に書き込んでください。

なぜイエスは十字架につけられたのか

さて、第一回は、とても古いサイレント映画ですが、わかりやすくよく出来ている名作、セシル・B・デミルの『キング・オブ・キングス』を観た感想を書きたいと思います。

大祭司カヤパの陰謀

この映画は、キリスト・イエスが多くの病人を癒すということで有名になっているところからはじまり、十字架刑、そして復活という内容です。登場人物の各々の立場が明確に描かれているので、わかりやすい内容となっていると思います。ユダヤ教の大祭司カヤパ(Caiaphas)は、宗教より税収入(revenue)に欲がある金の亡者として描かれています。 あらすじは次のようです。
病人を癒すという能力で民衆の支持を得ていたナザレのイエスは、神の国の到来を告げる新しい宗教家でした。カヤパは彼を神殿の収入を脅かす者と見做し、なんとかしてイエスを排除しなければならないと考えました。そこで、イエスを何らかの罪で逮捕するためにスパイを送って監視していました。しかし、イエスを支持する群衆の前で彼を逮捕しようとすれば群衆の反発を買うので、イエスが群集に囲まれていないときに逮捕する必要がありました。イエスの持つ不思議な力と民衆の支持があれば、彼は新しい王になれると思ったイスカリオテのユダは、イエスが王になったときに権力を手に入れることができると考え、弟子になりました。イエスがユダヤの首都イェルサレムに上京して神殿に入ったとき、民衆は彼を王として歓迎しましたが、イエスはそこを離れて独りになりました。そのとき、サタンがイエスを王にすると誘惑しますが、イエスはその誘惑に勝ち、民衆の前にもどって、彼の王国はこの世のものではないと宣言しました。これを聞いたイスカリオテのユダは、自分の計画が間違っていたことに気づき、動揺しました。大祭司カヤパは、ユダの動揺に付け入り、ユダのような実力者がイエスのような見込みのない人間の弟子になってはいけないとそそのかし、イエスが群集から離れて、お祈りをする場所を教えるように持ちかけました。ユダはこれに応じ、イエスは群集のいない夜中に逮捕されました。祭司長達は、ローマに対する反逆罪としてイエスを死刑にするために、ユダヤの総督のローマ人のピラトのもとに彼を送りました。ユダヤの民衆の暴動を恐れるピラトは、結局イエスを十字架刑にすることにしました。それを知ったユダは後悔して、首吊り自殺をしました。イエスの死とともに天変地異がおき、大祭司カヤパも自分のしたことを後悔しました。三日後、イエスは復活し墓から出てきました。イエスは弟子に会いにいき、福音を広めるように弟子に言い残し、天へと昇っていきました。
このように大祭司カヤパの策略で殺されたという解釈ですが、この解釈を補強するものとして、イエスの宮清めとして聖書に書かれているエピソードが、この映画でも描かれています

金をまき散らすイエス

イエスの宮清めの話は、聖書をみると、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書全部に共通して描かれているので、これが大祭司がイエスを抹殺しようとした動機であるという解釈は聖書(とくにルカ)からそれほどずれてはいないと言えるでしょう。当時のユダヤ教のイェルサレム神殿の境内では、賽銭を世俗のものから神殿用のお金に替える両替商や、生贄の羊や牛を売る商売人が店を構えていたそうです。聖書(マルコ11:15、マタイ21:12、ヨハネ2:14)には、「鳩を売る者」と書いてあって、映画でも鳩売りが出てきますが、これも生贄なのかはよくわかりません。祈りの家である神殿を強盗の巣にしたといって、商人たちを追い払ったという事件が、イエスの宮清めです。 マルコ11:15では「両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくりかえされた。」、マタイ21:12では「両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒された。」、ヨハネ2:15では「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた」と書かれています。映画ではヨハネの記述を忠実に再現していました。
しかしながら、お金だけが大祭司カヤパの目的であったと言い切ってしまうのは、実際とは少し違うかもしれません。由緒正しい大祭司のカヤパには、大工の息子である田舎者のナザレのイエスが死人を生き返らせたり、病気を癒したりして人気者になって、さらにユダヤ教徒が待ち望んでいるキリストだともてはやされていたことが、気持ちの上で受け入れられなかったのではないでしょうか。実際、そういうニュアンスで描いている映画もあります。もっと踏み込んで、預言の成就という観点からの解釈の方が聖書に則った解釈であると思いますが、観かたが不十分なのでしょうか、そういう映画はまだ観たことがありません。

イスカリオテのユダ

イエスの12人弟子の一人、イスカリオテのユダをどう描くかで、イエス映画の面白さが全く違ってきます。ルカ22:3に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテとよばれるユダの中に、サタンが入った。」と書いてありますが、これを文字通りサタンに操られてユダは自分の意思を失い、イエスを裏切ったとしてしまってはあまりに幼稚です。 これでは人間が如何にして悪を働くのかということへの教訓が得られません。
世の中で悪を働いているとみなされる人の多くは、自分は何も悪いことはしていないと考えているものではないでしょうか。自分が考えていることと自分がしていることのギャップに気づかないことから生ずる不幸は、人間には切り離せないもののように思えます。自分に間違いは何もないと考えてしまうことの根底にあるものが、サタンと呼ばれるべきものなのだと思います。

権力への意志

この映画では、イスカリオテのユダは、美男子の貴族(?)というような設定のようで、立派な服に指輪まではめてお金がありそうです。美貌の高級売春婦のマグダラのマリアは、イスカリオテのユダにぞっこんという設定です。そんなユダが肉欲よりも惹かれたのは、権力であったというのが、この映画の解釈です。ナザレのイエスはただ者ではないと見抜き、彼が王になった暁には、彼を利用して権力を握って、影の実力者になるのがユダの計画です。この計画は少し子供じみていると思う方もいらっしゃると思いますが、権力への意志がユダを突き動かしたという解釈はなかなかリアルなものではないでしょうか。
権力とはそれほど魅力的なものらしいのです。1950年代のアメリカで、西海岸を拠点としてビート詩人というグループが現れました。その一人のウィリアム・バロウズ(William Burroughs)という人は、その当時はやった麻薬にはまり、ひどい薬物中毒になっていました。当時のアメリカ社会に幻滅し、そんな社会からの落ちこぼれのビート詩人に共感を覚えたアメリカの若者が多く出現し、彼らはビート族とかビートニク(beatnik)と呼ばれ、ビート現象というものをアメリカに引き起こしました。このビートニクの生みの親として崇拝され、権力を得たウィリアム・バロウズは、奇跡的にひどい薬物中毒から快復することができたそうです。権力中毒は麻薬中毒よりも止められないものだそうです。
映画は話の流れのためか、福音書とは少し異なる展開をします。福音書(マルコ11:1-11、マタイ21:1-11、ルカ19:28-40、ヨハネ12:12-19)では、イェルサレムにイエスが入城するときに弟子と大勢の群集に「ホサナ」と歓迎されたことになっていますが、この映画では、宮清めのあとに、群集がイエスを歓迎するという筋になっています。このとき、群集の勢いをみて、まさにイエスが新しい王になるチャンスだとユダは考えましたが、イエスはそうせず群集の前から立ち去ってしまいます。イエスは自分の王国はこの世のものではないと言い、それを聞いたユダは、自分の計画の失敗を覚ります。挫折したユダは、大祭司カヤパに利用されることになります。
イスカリオテのユダが、イエスの言う王国を、他の民衆と同様に現実の国と考えていたので挫折したという解釈では少し物足りない感じがしますので、もう少し考えてみたいと思います。イエスがユダが考えていたような王ではないことがわかったのならば、縁を切るだけで良いのに、なぜ裏切ったのでしょうか。 ユダ役の俳優の演技をみると、ユダの挫折は、計画の失敗というより、人を見る目がなかったという自分の能力についての自信喪失にあったということが窺われます。自信喪失によって正しい判断ができなくなったユダは、大祭司カヤパの誘いにのって、ついイエスの逮捕に協力してしまったわけで、イエスに対する憎しみはユダには無いように描かれています。 権力を欲する人間の典型として登場したユダでしたが、すぐに挫けてしまうもろい自信家であったというわけです。

アーサー王伝説のネタ

イスカリオテのユダは、最後の晩餐でイエスからパンとぶどう酒を受け取りますが、結局それらを口にしませんでした。このときのぶどう酒の杯のデザインになんとなく違和感を覚えました。この杯は聖杯(the Holy Grail)と呼ばれる聖遺物となるもので、英国のアーサー王伝説で騎士達が捜し求めることになるものです。それに合わせたデザインのようなのですが、もう少しシンプルなデザインの器の方が違和感がないのではないかと思いました。この映画では、イエス達が去った後、テーブルに残されたこの杯に鳩が舞い降りて光り輝きだすというおまけつきでした。

美貌の高級娼婦

マグダラのマリアは、福音書にはどこにも書いていないのですが、美貌の持ち主ということに昔から決まっているようです。ですから、イエス関連の映画でマグダラのマリア役の女優さんは美人ということになります。 どうしてそうなのかは、わかりません。マグダラのマリアはイエスの愛人か奥さんだったという説と関係があるのでしょうか。 この映画では、マグダラのマリアは美貌の高級娼婦です。DVDの字幕では、beautiful courtesanを「美しい女貴族」と訳していますが、なぜそういう訳になるのかは不明です。 惚れ込んでいたイスカリオテのユダが最近現れなくなったので、ユダを探しにイエスのもとに行きます。ところが、そこでイエスに「清くありなさい!」と命じられ、七つの悪霊を追い払われて、彼女もイエスを信ずるものになるという設定です。

七つの悪霊を追い出してスッキリ

ルカ8:2に「悪霊(あくれい)を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、...」という記述があります。映画では、この七つの悪霊が一つ一つ幽霊のようにマグダラのマリアから離れていく様が描かれています。
  1. 肉欲 (lust) [DVDの字幕では切り札と訳していますが意味不明です]
  2. 欲望 (greed)
  3. うぬぼれ (pride) [DVDの字幕では誇りと訳していました]
  4. 大食い (gluttony)
  5. 怠惰 (indolence)
  6. 妬み (envy)
  7. 怒り (anger)
ルカの福音書のマグダラのマリアの記述の直前のルカ7:36-50に「罪深い女を許す」というエピソードが書かれていて、この罪深い女は、「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:38)とあります。多分、この罪深い女が、いつのまにかマグダラのマリアと同一視されて、マグダラのマリアは娼婦で、髪の毛が長いということになったのではないかと推察されます。あるいは、この罪深い女はマグダラのマリアだったのかもしれませんが、何らかの理由でそのことが福音書では伏せられたのかもしれません。この可能性はゼロではないでしょう。とにかく、西欧の絵画では、マグダラのマリアは長い髪の毛が目印ということになっています。

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた

大祭司カヤパの指示で、律法学者やファイリサイ派の人々が、姦通の現場を捕らえられた女をイェルサレムの神殿の境内で説教をしてるイエスの前に連れてきました(ヨハネ 8:1-11)。 モーゼの律法に従ってその女は石で打ち殺す刑に処せられねばならないのですが、このことをイエスはどう思うかという難問を、彼らは突きつけました。この女を赦せば、モーゼの律法を破ることになるからです。どうやってイエスはこの難問をかわしたかといいますと、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いていた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」(ヨハネ 8:6-9)と書かれています。
ここで気になるのは、イエスが地面に何かを書いていたということです。この動作は、そこに集まっていた人々と議論をして頭で説き伏せるのではなく、逆に議論をしないことによって一人一人のこころに反省の気持ちを生じさせるためで、何を書いていたかといことはどうでも良いと私は思っていました。 ところがこの映画では、イエスが地面に書いた文字をそこに集まった人々が見て、そして彼らは立ち去ったという解釈をしています。 その文字というのが、泥棒(thief)、人殺し(murder)でした。これで、一人を除いて、ほとんどの人がその場を立ち去りました。ということは、姦通の罪を犯した女を石で打ち殺そうと集まった人々は、ほとんどが泥棒か人殺しだったということです。イェルサレムの神殿はなんと物騒なところだったんでしょうか。 映画では、緊張感を盛り上げるために、最後に一人残った者がいました(ファイリサイ派の人らしいのですが、自信はありません)。自分はそのような罪を犯したことがないので、その女に石を打ちつけることができると言い放ったその者に対して、イエスは、「怠け者」と地面に書くと、その者も石を置いて立ち去りました。 ここはちょっと注意が必要で、DVDの字幕では「怠け者」と訳していますが、元の英語はadultereです。これは、性的な不義を犯した者(特に男性), 姦夫(かんぷ)という意味ですから、確かにそういう身に憶えのある者は、自分と同罪の女を罰することはできないでしょう。
この赦された女をマグダラのマリアだと解釈する映画もありますが、福音書にはそれを積極的に支持する文言は見当たりません。だから、別人としているこの映画は、より聖書に忠実と言えるでしょう。

またまたマリア

聖書にはマリアという名前の人物がいっぱい出てきます。 死んだ人間を生き返らせるという奇跡は、先ほどに続いて、またヨハネの福音書に書かれています。ベタニアのマルタとマリアの兄弟のラザロが病気で死にます。 福音書では、イエスがベタニアに着いてから、最初に話をするのは姉のマルタです。福音書の性格描写では、姉のマルタが積極的で実務的であるのに対して、妹のマリアは消極的となっていて、この映画でもそれが良く表現されています。
映画とは関係ないのですが、福音書では、マルタよりもマリアの方がイエスに対する理解と愛情が深かったように書かれています。例えば、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)というイエスの発言や、「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持ってきて、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)というところにそれがあらわれています。 ナルドの香油という高価な香油は、当時の女性がそれを少しずつ貯めて、嫁ぐときにもって行ったものだという説があるそうです。従って、「家は香油の香りでいっぱいになった」というくだりは、マリアとイエスが結婚したということを意味しているのだそうですが、本当にそうなんでしょうか。
香り関連でさらについでに、福音書には、ラザロを見に行こうとするイエスにたいして、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(ヨハネ11:39)とマルタが言ったと書いてありますが、そういうことをはっきりというところがマルタらしいです。この映画ではにおいのことには触れていませんが、他の映画では、聖書に忠実に、においに言及しているものもあります。

子供好きなイエス

福音書(マコ10:13-16、マタイ19:13-15、ルカ18:15-17)には、「子供をわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とイエスが言ったと記されています。 この映画では、イエスが子供好きであると解釈して、福音書には記述の無いエピソードを挿入しいます。マルコの福音書を書いたマルコが少年としてこの映画には登場します。彼は脚を折って杖を使っていましたが、イエスに癒されて元気なります。少年マルコから、イエスなら折れた脚を治せると聞いた女の子は、脚が壊れた人形をイエスに直してもらおうと頼みます。 イエスは嫌がりもせず、笑ってそれを直してあげるというエピソードです。 この人形は木製で、脚が取れてしまっていました。イエスは手際よくこれを修理します(さすが大工の息子!)。
最初に見たときは、この人形が兵隊のように見えたので、この心和むエピソードの中にも、将来起こる悲劇を予感させるという監督の手法は上手いと思いました。 しかし、女の子が兵隊の人形を持っているというのは変なので、多分、王子様の人形なのかもしれません。

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