「悪しき隣人」のみた風景
  昨秋のことである。サイクリングロードを歩く私の前に一人の女性がいた。ありふれた日常なのに、その光景は私の記憶に鮮明に残っている。彼女の持つ紙袋に私が驚いたからである。正確には、紙袋に印刷してあったMEIN KANPFという大きなロゴに。

  おお、ナチス主義者だ!!

  MEIN KAMPF――簡単な日本語に訳すと「私のたたかい」――になぜ驚いたのか。ヒトラーに同名の著書(日本語タイトル『我が闘争』)があるからだ。極端に単純化して言えば、ナチス・ドイツが《民族浄化》の名の下に行なったさまざまな残虐行為の思想的淵源は、MEIN KAMPFにある。ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」でも扱われた重いテーマである。
  後日、MEIN KAMPFというファッション・ブランドがあることを、インターネットで知った。彼女の紙袋はこのブランドのだと思う。だから、彼女とMEIN KAMPFの歴史的意味とは直接の関係はなさそうだ。あるいは、彼女はその意味を知らずに紙袋を持っていたのかもしれない。ブランドの命名者も字面のカッコヨサだけでそう命名したとも考えられる。
  ところで、このブランドをドイツ――広く欧米でも良い――で展開するのは難しいだろう。
  ヴァイツゼッカー大統領(当時)の1985年の演説『荒れ野の40年』は有名であるが、今でもなお、ホロコーストの原罪とその償いがドイツの《現在の問題》として議論されている。一方、イスラエルでワーグナーを演奏するには今でも困難が多い。このように、ユダヤ人がこうむった迫害は《過去の不幸》ではなく、いまも議論される《現在の問題》なのだ。それも、世界的規模で。だから、ユダヤ系の人たちがMEIN KAMPFをみて、過去にこうむった《民族的虐待》を連想しても不思議はない。ユダヤ系の人たちは欧米に広く散らばっている。迫害を受けたユダヤ人たちは、その多くがアメリカに移住した。このブランドはアメリカでも白い眼で見られるだろう。――ユダヤとは宗教ではない。それはひとつの不運である。(ハイネ)
  ドイツ基本法は「意見表明の自由……を、自由で民主的な基本秩序に敵対するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する」と規定している(18条)。これは「闘う民主制」という思想のあらわれだ。この規定と思想にも、ドイツの歴史が深く関わっている。ワイマール共和制が《憲法の敵=ナチス》にも憲法上の権利保障を与えたことで、体制そのものが内側から崩壊したこと――《ナチスの合法革命》――の反省に基づき、第二次大戦後のドイツの憲法体制では「ドイツの民主主義憲法体制を破壊する者」には憲法上の権利を保障しないというシステムが構築された。これにより、ドイツではナチス主義と共産主義が《反憲法的》とされている。ちなみに、これらの主義を掲げる政党は連邦憲法裁判所により憲法違反と判断された。
  このように、ドイツ憲法における「表現の自由」の保障内容は、ドイツ特有の歴史的文脈を知ってはじめて理解できるものである。では日本国憲法が保障する「表現の自由」はどのような保障内容だろうか?。差別的表現、特定の思想をあおるような表現活動、他人の名誉を傷つけるかもしれない表現活動……。さまざまな表現行為について「表現の自由」はどう保障されるべきか?。ドイツのような「表現の自由」の保障と日本国憲法のそれと、どちらが適切か?。
  みなさんで議論して欲しい。「議論」もひとつの表現活動である。

2003.3.29 悪しき隣人