インドネシアは、日本の戦争を支えるために資源および人力を提供させられた。

 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。

 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。

 ーー日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。

 ーー日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実態はおづであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代()のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシアの民衆の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。

 戦争中であったために、日本による占領時代のインドネシアでは、軍政がしかれた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された。そして、戦争にふさわしいように、あらゆる種類の活動の目的が、戦争が必要とするものにむけられた。

 天然資源が、戦争のために搾取された。労働力が、戦争のために搾取された。その搾取はつぎのように行われた。

a 天然資源と食料の搾取ーー原材料は、戦争が必要とする工業材料を得るために使われた。食料の供給は、とくに軍人による消費のための備蓄にむけられた。

ーーあらゆる耕作地は、日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価格も日本軍政府によって決定された。それは、モルッカ諸島でのオランダ東インド会社による香料の独占と、どこが違うのだろうか。

ーー戦争にあまり役立たないものの栽培は、制限されたり、完全にやめさせられた。例えば、スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培に替えさせられた。ヒマは飛行機の潤滑油の材料として、非常に必要であったのだ。

ーー必要性があるため、依然として耕作が続けられたものには、キニーネ、ゴム、砂糖きびがあった。

ーー森林は、農地として利用するという理由で伐採された。森林伐採はジャワ島だけで50万ヘクタールにおよんだ。

 農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食料増産にはつながらず、それどころか逆に収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の浸食と洪水の原因となった。浸食は土地の肥沃度を低下させ、灌漑に不可欠な水源をかれさせた。洪水は、稲作を破壊した。 

 そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。

ーー優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。

ーー日本軍政府は、軍隊の消費のために家畜を大量に殺した。その結果、家畜の数が次第に減少していった。しかし、農民たちには、田を耕すために、家畜が必要だった。

ーー民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本軍政府に引き渡さねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の強制栽培とどこが違うだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で働く時間が不足してきた。

ーー多くの民衆が無理やりロームシャ()(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作する労働力が、しだいに減少していった。

 農業生産はすでに減少していたが、民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制された。

 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。飢餓の危機がいたるところで発生した。栄養失調で腹ばかりがふくれた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で死体が目撃された。

 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。

 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、綿やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。

b その他の物資の搾取ーー民衆の負担は、日本が戦争に必要なその他の物資の供出を義務づけたために、いっそう重くなった。

 そのような物資に、屑鉄がある。古い鍬や鎌、そして庭の鉄柵まで取り壊して、差し出さねばならなかった。

c 労働力の搾取ーー労働力の搾取が、社会の階層を問わず、いたるところで行われた。都市から田舎まで、知識層も文字を読めない人びともまた、そのすべてが戦争のために搾取されたのだ。

 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、多くは文字が読めなかった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。

 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまでも残っている。カリウラン(ジョクジャカルタ)にあるのは、その一つだ。

 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともにロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。かららが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった、衣服は満足に配給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカ()の粉の粥だった。それも1日1回であり、量もきわめて限られたものであった。

 その結果、何千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることがなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ。

 この事実を目にして、多くの青年たちが村々から姿を消した。彼らは、ロームシャにされることを恐れて逃げたのだ。もちろん、これは地方の農業に悪い影響をもたらさざるをえなかった。その結果は、どのようなものだったのか、いうまでもないだろう。

 ロームシャとしての労働力の目的は、明らかに、戦争のための建設事業を行う日本を補助することだった。1943年以後、太平洋戦争で、日本は行きづまり始めた。日本はさまざまな戦場で敗北した。連合軍の攻撃によって、日本軍はしだいに身動きがとれなくなってきた。このため、日本は連合国軍の攻撃に備えて、インドシナの青年たちを利用したのだ。

()romusaまたはromusyaと表記されている。日本語の「労務者」が語源。独立後に刊行されたインドネシア語辞典で、「ハラキリ」「サケ」とともに、日本語起源の語彙として最も収録頻度の高いものの1つ。1943年11月以降、日本軍の防衛力強化や資源の収奪のために、組織的な「労務者」の動員が行われ、1945年8月までの動員総数は、戦後の賠償交渉でインドネシア側が主張した数字によれば400万人、同じく日本側の主張では15万〜16万人である。日本軍のある調査によれば、ジャワにおける1944年11月頃の「労務者」は約210万人であり、インドネシア側の挙げた数字が、実態により近いと思われる。以下、原文でローマ字表記がされている日本語起源の言葉は、訳文ではカタカナ表記とした。

(p265〜p270)