日本統治時代の遺物−中山広場付近

 大連に来て最初にその位置を確認したのが中山広場。どこに行くにも、まず中山広場を起点にして考えれば、だいたいの位置関係がつかめるほど、中心的な場所にある。

 大外からは、正門を出て延安路をまっすぐ歩けば中山広場に突き当たる。所要時間はゆっくり歩いて15分程度だろうか。
 この中山広場のまわりは、ランダバウト(ロータリー)になっている。このランダバウトには、放射状に接続する大小10の道路がある。
 そして延安路と中山広場がぶつかる場所の右側に建っているのが大連賓館である。このホテルは、日本が大連を統治していた当時に、大和旅館という名で開業されたホテルである。
 大連に来た翌日、日本円を人民元に両替したのはこのホテルの1階にある両替所であった。また、「Concierge(コンシェルジュ大連)」という、大連に住む日本人や観光客向けの日本語の大連案内をもらうのもこのホテルの両替所である。
 またこのホテルには、大連では老舗といわれる日本料理店「紅葉」がある。すでに日本とは直接的な関係はないにもかかわらず、日本にゆかりの深い建物として存在している。驚くことは、日本の支配下から解放された今でも、当時のままの建物がそのまま使われていることである。日本ならば、屈辱の建物であれば、それを完全に破壊して、何かほかのものに変えてしまっているはずだ。しかし、大連では、たとえそれが屈辱の建物であれ、利用できるものはそのままの状態で利用しているのである。そしてそれが、日本人観光客を呼び寄せるひとつの目玉になっている。したたかである。

 持参した『地球の歩き方』を見れば、中山広場の周囲を取り巻く建物のほとんどは、日本が統治していた時代に日本人の手によって(資本によって)建てられたものであることがわかる。
 そしてそれらは、大連賓館と同じように、決して取り壊されることなく使われている。利用の仕方がうまいのか、それともそれだけ堅牢な造りだったのかはわからないが、中山広場という中心的場所を取り巻くように建てられているそれらの建物を見ると、いかにもセピア色がかっていて、後方にそびえる近代化されたビルと対比すると違和感がある。もちろんそれが、日本人観光客にアピールすることになるのだろう。


大連賓館(旧大和旅館)

 さて、延安路を下りてきて、最初に見えるのが、先に紹介した大連賓館である。
 大連賓館の正面には、2002年1月に、大連市人民政府の手によって掲げられた、大連市重点保護建築と題されたプレートがある(以下に示した各建物の年号はすべて大連市人民政府によって作成されたプレートに記載されていたもの)。それを見れば、このホテルは1914年に竣工したことが書かれている。設計は日本人である。
 このホテルから、ランダバウトを渡ると、中山広場に入ることになる(しかし横断するのは一苦労。何しろ道幅が広く自動車がひっきりなしに通過する)。
 中山広場の中央に立ち、大連賓館を振り返って見る。現在の大連賓館の屋上には、巨大な電光板が設置されており、サッカーの試合などを映し出していたりする。
 目を左側に移すと、解放路をはさんで銀行がある。中国工商銀行である。この建物は、旧大連市役所であったという。さらに、魯迅路をはさんで建っているのが交通銀行の建物である。プレートを見れば、この建物は1936年に建設された、東洋拓殖株式会社という日本の会社が入っていた建物である。
 さらに、人民路をはさんで建っているのは、もともと日本の資本による中国銀行だった建物で、現在では中信実業銀行が入っている。プレートによれば、この建物は1910年に竣工したものである。
 注:写真は、中山広場の中心に立って、時計回りに見回したように並んでいる。したがって、大連賓館から始まって右から左に建っている。


中信実業銀行(旧中国銀行)

交通銀行(旧東洋拓殖株式会社)

中国工商銀行(旧大連市役所)

 さらに目を左に転じると、七一街という細い道をはさんで、人民文化倶楽部という劇場がある(同じ建物の中に中国光大銀行も入居している)。
 劇場の左側には民生街があり、その民生街の左側に中国銀行がある。この建物は1907年に建設をはじめて1909年に竣工したもので、かつては横浜正金銀行が入っていた建物である。
 中国銀行の左側は、上海路をはさんで大連市郵政局の建物がある。これは1925年に大連逓信局として建てられたものである。


大連郵政局(旧大連逓信局)

中国銀行(旧横浜正金銀行)

人民文化倶楽部

 その建物の左側には、民康街をはさんで中国工商銀行があり(中山広場のまわりに同じ銀行が2つもある)、その建物は1917年に起工し1920年に竣工した建物で、旧朝鮮銀行として使われていた建物であった。
 中国工商銀行の左側には、中山路をはさんで遼寧省対外貿易経済合作庁が入っている建物がある。この建物は1907年起工、1908年竣工の建物で、中山広場周辺にある建物でもっとも古いのが、この建物である。ここにはもともと大連民政署(警察署)が入っていたという。
 そして、玉光街をはさんで建っている、ひときわ新しい建物が、上海浦東発展銀行である。この銀行の左側には延安路があり、この延安路をはさんで大連賓館に戻ることになる。


上海浦東発展銀行

遼寧省対外貿易経済合作庁(旧大連民政署)

中国工商銀行(旧朝鮮銀行)

 このように、中山広場に面して建っている建物10のうち、なんと8つが、日本にゆかりのある建物である。
 とはいえ、それは決して日本風の建物ではなく、当時としては、きわめてモダンな建物であったと思われる。ほとんどが石造りで、日本風というよりは、西欧風の建物である。センスの善し悪しは別にして、日本人は当時、大胆な試みをこの大連で行っていたと思われる。

 また、中山広場に接続する魯迅路の右側歩道を5分も歩けば、大連鉄道有限責任公司の建物が見えてくる。
 その建物は、満鉄の本社として使われていた建物である。建物の前には、大連市人民政府の手によって、史跡としての石碑が建てられている。

 この旧満鉄本社には、今でも当時から使われていたマンホールのふたがあるということを、ある先生から聞いていたので、興味津々で探してみたのだが、この建物の近くには、4つほどのマンホールがあり、明らかに違うだろうと思われるものを除いても、残りのマンホールのふたの、どれが当時からのものか判断がつかなかった。つまりは、どれもこれも古いわけだ。


旧満鉄本社

 とりあえず、『これかな?』と思われるものを写真撮影。でもどれかは本当にわからない。
 H先生、どれですか?(まさかどれでもないということはないでしょうね?)[1/May/2002]


色付きというのが怪しい

左とマークが同じというのが怪しい

模様が怪しい

何となく怪しい

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