カローデン・バトルフィールド Culloden Battlefield

  当地に来て、ペナンが舞台の『ローカル・ヒーロー』、ハイランドの義賊(?)、ロバート・マクレガーを主人公にした『ロブ・ロイ』など、スコットランドが舞台の映画を何本か観た。そのいずれもがテレビで放映されたものだ。
  そして最近、BBC2で『メアリー・クィーン・オブ・スコッツ』を観た。
  メアリーは、1542年、スコットランド王ジェームスX世の娘としてスコットランドで生まれ、5歳でフランス王アンリ2世の長男と婚約、16歳で結婚、満17歳でフランス王妃にもなった。映画は、成人したメアリーが最初の夫の死に直面し、1561年、再びスコットランドに戻るところから始まった。英語の字幕を頼りに観ていたので細かいことはわからないが、メアリーは夢多き女性であったようだ。スコットランドに戻ってきたあと再婚するが、その夫ヘンリー・スチュワートもあるお城に閉じこめられ爆殺(この夫との間に生まれた子供が後にスコットランド王ジェームスY世兼イングランド王ジェームスT世)。その後ボスウェル伯爵と3回目の結婚をした(ボスウェル伯爵は結婚していたが離婚までしてメアリーと再婚した)。
  メアリーにはいとこがいる。イングランド女王エリザベスである。映画は、この二人の女性の愛憎劇を宗教的、政治的対立を絡めながら展開する。最後は、メアリーはエリザベスに捕らえられ、1587年、真っ赤なドレスを身にまとったメアリーが断頭台で首を落とされるというショッキングな場面で映画は終わる。

  さて、その映画を観た翌日、我々は、メアリーの時代から約200年後、スコットランドとイングランドが戦ったカローデン・バトルフィールド(カローデン古戦場とでもいうのだろうか)に向かった。ここにも、もう一人のスコットランドの歴史上重要な人物が登場する。

  カローデン・バトルフィールドは、アバディーンからは100マイルほどの距離(この距離が正確ではないのは、コーダー城からカローデン・バトルフィールドに向かったためであり、しかもコーダー城からカローデン・バトルフィールドに向かうときに道を間違えてずいぶん道草を食ったために、正確な距離がわからなくなった。不覚にも走行距離を控えてなかった・・・)。

  カローデン・バトルフィールドに着くやいなや、激しい雨が降ってきた。それまでポツリポツリ雨は落ちてきていたのだが、駐車場に入るとその雨は激しさを増したのであった。
  「数千人が死に絶えたこの場所でこの雨。何か嫌な予感がするなあ。」
  「嫌な予感って何?」
  「だって、今でも空中に浮かぶ千人の兵士を見たという人もいるというし・・・。」
  「雨が上がったら、人魂ぐらいでてもおかしくない・・・。」
  そんなくだらないことを話しながらしばし自動車の中で待機。当地の雨は、長く降り続くことはほとんどないことは経験的にわかっていたから、雨が上がるのを待っていると、5分ほどで小やみになった。

  ここにはNTSのビジターセンターがあり、バノックバーンと同じように、展示物があったりシアターがあったりする。
  NTSの会員である我々は、会員証を示してセンター内へ。20分後にビデオを上映しますといわれたので、それまでの間、センター内部を簡単に見て、センター内から見えたセンターのすぐ近くに建つ建物に向かった。
  その建物は、Leanach Cottageと書いてあり、どうやらこの地方(ハイランド)の古い家を模したものらしいが、中にはいると、血痕が付いた布やらベッドやらが置いてあった。それらをロープ越しに眺めるようになっていた。
  「これは病院だ。戦いで負傷した兵士をここで治療したんだ。ほらこの木でできた台が手術台だ。そこに体内から取り出したと思われる鉄砲の弾もある。」
  「どれ?」
  「ほらあれだよ。見えなかったら、このロープをくぐって近くで見てごらん。」
  子供達が、近くで見るためにロープをくぐった途端、けたたましいサイレンがなった。
  「なんだ?!」
  慌てて建物の外に出た。すると、原野中にサイレンが響きわたり、ビジターセンターから、イングランド軍兵士の格好をした係員がこちらに来ていた(どうしてイングランド軍の格好をしている?ここはスコットランドだ)。どうやら、仕切のロープの中に入ると、センサーが働き盗難防止のサイレンが鳴る仕組みになっているのであった。事情を理解したイングランド兵はニッコリ微笑み「ビデオが始まりますよ」と一言。
  その係員に平身低頭で謝り、そそくさとビデオシアタールームに入り込んだ。
  小生が子供達に入れといったからサイレンがなったのであり、当然、この一件で家族に叱られたのはいうまでもない。 

  さて、ビデオシアター。カローデンの戦いを15分ほどにまとめたものだったが、チャンネル6番に日本語があったので、存分に楽しめた。
  ここからはビデオの解説で仕入れた知識。
  カローデンの戦いは、1746年4月16日に、ボニー・プリンス・チャーリー率いるスコットランド軍(ジャコバイト軍)と、カンバーランド公爵(Duke of Cumberland、ジョージU世の次男)率いるイングランド軍(ハノーバー軍)とによって行われた合戦であった。その戦いは、わずか40分ほどでイングランド軍の大勝利に終わり、ボニー・プリンス・チャーリーは命辛々逃げ延びて、スカイ島を経由してフランスに渡り、やがてフランスから生まれ故郷、ローマに追放され、そこで生涯を閉じることになる。


こちら、ボニー・プリンス・チャーリー
         
こちら、カンバーランド公爵

  ボニー・プリンス・チャーリー。その名をチャールズ・エドワード・スチュワート(Charles Edward Stuart)といい、1720年にローマで生まれた。ちなみにボニーとはスコットランドでは「魅力ある」「美しい」という形容詞として使われる単語。彼をボニーと形容するということは、それだけこの若いプリンスにカリスマ性が備わっていたということかもしれない。
  スチュワート朝ジェームスU世は1688年から1689年の名誉革命(Glorious Revolution)によって、宗教がらみ(カソリックVSプロテスタント)で王位継承権を失い、フランスを経由してローマに渡る。その子、つまりボニー・プリンス・チャーリーの父親(James Francis Edward Stuart)もまたローマで失意の日々を送る。つまりは、その昔年の恨みを晴らすべく、ボニー・プリンス・チャーリーは、英国にスチュワート王朝を復活させるべく、ローマをたってスコットランドに戻ってきたのである。時に、ボニー・プリンス・チャーリー25歳、1745年7月のことであった。

  それ以降、ボニー・プリンス・チャーリーは、多くのハイランドの郷士たちの支持を得てイングランドに向けて進撃する。スチュワート朝を支持した者をジャコバイト(Jacobite)という。ジャコバイトは、スチュワート朝のジェームスU世のラテン語読みに由来する呼称らしい。そしてまた、ボニー・プリンス・チャーリーに従軍した多くがハイランドという土地の者だったことから、その兵士をハイランダーともいう。その勢いは凄まじく、1745年の12月にはイングランド中部のダービー(Derby)にまで到達した。しかし、イングランドでのボニー・プリンス・チャーリーの支持者が予想以上に増えなかったことが、半年後のカローデンの戦いでの敗戦につながったという。
  ハイランダーはスチュワート朝復活を目標にボニー・プリンス・チャーリーを支持したらしいが、もともとが一匹狼的な輩が多かったことも敗戦の要因になる。郷士や貴族それぞれが戦術を持ち、その傭兵は、もともと統率のとれた軍隊の訓練を受けた者ではなかったというわけだ。

  一方政府軍、つまりハノーバー朝の王を戴くカンバーランド公爵率いるイングランド軍(ハノーバー軍)は4月8日にアバディーンに到着。そこからハイランドに向けて進撃を開始。途中、コルガルフ城を落としてそこをハノーバー軍の兵舎にする。かつてコルガルフ城を訪れたときにはあまり感慨はなかったが、ここでそのお城の名を聞くと、俄然、我々が訪れた場所が具体的なイメージを持ったものとして(つまり歴史的な重要性やその役割が)感じられるから不思議だ。

  さて戦いの舞台カローデンは、ヒース(heather)で覆われている荒野(Moor)である。見渡す限りの原野が広がっている。現在ではジャコバイト軍とハノーバー軍が陣をとった場所に旗が立てられている。その距離400メートル。戦いの火ぶたは、ジャコバイト軍の攻撃から始まった。しかし、槍や剣を主力にする歩兵が多いジャコバイト軍に対して、銃はもとより大砲まで帯同してきたハノーバー軍は、その技術においても訓練された兵士という点においても、ジャコバイト軍をまったく寄せ付けなかった。その戦いは約40分で決着する。


ここにジャコバイト軍が整列したという。

  ジャコバイトを徹底的に攻撃することを目標にしたカンバーランド公爵は、ジャコバイトを皆殺しにする命令を出したという(実はここにはプロパガンダ合戦があったがここでは省略。小生の知識ではうまく表現できない)。結局ジャコバイト5,000名のうち1,000名がその場で殺されたという。一方ハノーバー軍はわずかに50名の死者を出しただけであった。恐ろしいのは、この戦いのあと一週間でさらに1,000名のジャコバイトが殺されたという。そんなどう猛残虐なカンバーランド公爵は、のちに「殺戮者」(Butcher)と呼ばれることになる。そんな解説を聞いたあとにカローデンを歩くと、いくつもの石塚があった。その石には何か刻まれている。良く読むと人の名前だ。それは墓標だった。

こんな塚がいたるところにある

  ここに来るまでは、スコットランドとイングランドの戦いというイメージを持っていたが、それはどうやら違うようだ。基本的には王位継承権争いにスコットランド、とくにハイランダーたちが巻き込まれたというのが真相ではなかったのか。何故なら、スコットランドの貴族たちの中には、ハノーバー軍に加勢した者たちもいたのである。オール・スコットランドVSオール・イングランドの戦いではなく、スチュワート支持者VSハノーバー支持者の争いだったのだ。しかも、王位継承権を持つどちらの家系も血のつながりがあるのだ。ボニー・プリンス・チャーリーとカンバーランド公爵はいとこ同士だという。骨肉の争いでもあるのだ。
  なぜボニー・プリンス・チャーリーは、スコットランドに来たのか。黙ってローマで一生を終えていればこんな戦いは起こらなかったハズだ。


これは記念の塚:両軍が対峙した真ん中にある。

  こんなことを考えると、趣味としての歴史(勝手に想像するだけの無責任な歴史)は本当に面白い。多分、高校時代、世界史で英国史も習ったハズである。しかし、今ではまったく忘れている。それが、何の知識もないままに戦場を訪れ、しかもその周囲の環境を目の当たりにすると、もっといろいろ知りたくなる。たとえば、これまで見てきたHS関係のお城(いずれも廃墟だが)は、ほとんどが1745年から46年に、ジャコバイトとしてボニー・プリンス・チャーリーを支持する立場を取っていたことが、そのお城の解説プレートに記されていた。訪れた時には、それがそれほど重要なことであるとも思っていなかったし、何よりカローデンの戦いの意味を理解していなかったのであった。それが、カローデンを訪れて初めて、英国王朝の流れの一端や、スコットランドとイングランドの戦いなどが、何となく一つの知識としてつながり始めたのであった。まさに、百聞は一見にしかず、だ。

  上空に雲はたれ込めていたものの、雨は上がった。幸いにして空中に浮かぶ兵士も人魂にも遭遇しなかった。
  しかし、強く吹く横風がヒースをゆらし、荒涼としたカローデン・ムーアを一層寂寥感溢れる場所にしているのであった。


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