第13回大連市キャノン杯日本語弁論大会決勝戦

1.初の休講
 当地に来て、学会出張などもなく、これまで一度も休講にしたことはなかった。
 しかし、小生が担当したJさんがキャノン杯決勝戦に出場することになり、『できれば聞きに行きたいな』と思っていた。だが、決勝戦は木曜日の午後。この日は3年生の講義が2コマある。学年ごと毎週の講義内容を統一して講義を展開していたので、木曜日の2クラスだけ休むと、そのあとの講義内容に影響する。そのため、残念ながら決勝戦には行かないつもりでいた。
 ゴールデンウィーク前にちょっとした打ち合わせをして、ゴールデンウィークが終わってから、再び練習を始めた。週3回の練習だった。
 その練習を重ねるにつれ、やはり聞きに行きたいという思いが強くなり、副院長に打診した。
 副院長は「別の時間に補講をして下さい」といってあっさりと休講を認めてくれた。
 大外での休講の連絡は、担当教員が教室で学生に直接伝える方法と、教務担当の教員を通して各クラスの班長に伝達し、班長が各学生に伝えるという、ふたつの方法があるらしい。日本のように休講掲示はない。副院長は、「学生にはこちらから伝えます」といってくれた。
 後日談ながら、休講の連絡は学生には伝わっていなかったようだ。しかし、小生がJさんの指導をしていることはだいたいの学生が知っており、突然の休講にも驚かなかったようだ。むしろ、補講を伴わない休講を歓迎する学生が多かった(日本と同じ)。

2.5月30日、富麗華大酒店


弁論大会を待つステージ

 決勝戦の3日ほど前、副院長から決勝戦の入場券をもらった。
 それを見れば、今年の決勝戦は、5月30日(木)、午後1時30分から、大連富麗華大酒店(フラマホテル)2階、多功能庁で開催されるとのことだった。昨年は香格里拉酒店(シャングリラホテル)だったが、今年は富麗華大酒店に変更になった。いずれにしても五つ星ホテルである。
 入場券を手に入れた後、ほかの日本人専家の先生に聞いたところ、キャノン杯学内予選以降、学生の指導にあたった教員は、副院長から決勝戦への参加を呼びかけられたという。どの先生も木曜日には講義があり、講義の振替措置などを予定して参加するとのことだった。余談ながら、学部の学生は振替も補講もいらないといい(これも日本と同じ)、培訓部の学生は必ず補講を要求するという。
 午後12時50分、小生は、M先生、I先生とタクシーで富麗華大酒店に向かった。例年、会場は満席になり、早めに行かなければいい席が確保できないからだった。
 午後1時ちょっと過ぎに会場到着。すでに観客が座席のほぼ7割がたを埋めていた。情報では、毎年、座席は1,000席程度用意されるという。見たところ、本当に1,000席もあるのだろうかと思われたが、それでもおびただしい数のパイプ椅子が並んでいたことには変わりはない。そして、大外の学生が数多く聞きに来ていた。多くの学生があいさつしてくる。彼らにとって日本語の弁論を聞くこともさることながら、五つ星ホテルに入るということも大きな魅力のようだった。
 会場正面には立派なステージがしつらえられ、向かって左手には大型のスクリーンも設置されていた。
 中央の最前列は来賓や審査員席。その後ろは、各大学の関係者席。
 我々は、ステージに向かって左側の前方座席を確保。
 発表者は、ステージに向かって右側の前方に並んで座っていた。
 小生、まず、Jさんの姿を見付け、励ましのことばをかけた。古風ながら、練習の時の教えておいた、人の字を手のひらに書いて飲み込むおまじないを確認する。しかし、Jさんは心なしか顔がこわばっているように見えた。

3.セレモニー
 予定の開始時間を10分ほど経過したとき、いよいよ決勝戦が始まった。発表に先立ち開会のセレモニーがあった。
 今年のキャノン杯は、過去最多の1,194名が参加、うち大学組(日本語専攻)の参加者は627名だったという。
 セレモニーでは、主催(大連市人民対外友好協会・キャノン大連事務機有限公司)、後援(中国日本友好協会・日本国駐瀋陽総領事館・社団法人日中協会)、協力団体、実行委員会、審査委員会の紹介、日本側、中国側のあいさつなどが行われた。
 審査委員会は、委員長は中国側1名、主任審査委員は中国・日本各1名、委員は中国側4名、日本側3名、計10名だった。中国側主任審査員は、おなじみの大外教授C先生。その他の所属は、委員長は大連市外事弁公室主任(主任というのポジションは日本とは違って序列が高い)、日本側主任審査委員はキャノン大連事務機有限公司薫事長(日本でいえば会長)、委員は、大連民族学院教授、大連理工大学教授、東北財経大学教授、遼寧師範大学副教授、全日空大連支店長、大連日通外運物流有限公司総経理、安田火災海上保険大連駐在員事務所所長という、そうそうたるメンバーだ。
 また、審査項目と方法は次のようになっていた(PowerPointを使って説明された)。
【項目】
(1)主旨と構成、説得力 40点
(2)発音・アクセント・言葉づかい・文法表現・イントネーション 30点
(3)一口質問 20点
(4)弁論態度 10点 計100点
なお、発表時間が1分30秒未満は失格、3分で予鈴、4分を超えた場合は減点。
【方法】
(1)各委員の採点のうち最高点と最低点を除外して、8名の審査員の平均点で順位を確定
(2)同点の場合は、項目(1)の高い方、それが同点の場合には(2)の高い方という方法で順位確定

4.発表会
 2時34分、いよいよ発表会がスタートした。
 発表の順は、自学組、大学組(非日本語専攻)、大学組(日本語専攻)、社会組の順で、そのあと、すでに順位が確定していた小学組、初中組(中学生)、高中組(高校生)の金賞受賞者の発表が行われた。
 したがってこの日の発表会では、自学組、大学組(非日本語専攻)、大学組(日本語専攻)、社会組の4部門の決勝進出者各3名が発表し、金賞、銀賞、銅賞という順位が確定する。
 ところで、自学組、大学組(非日本語専攻)はふたつの論題から一つ選択して発表、大学組(日本語専攻)、社会組は一つの論題について発表する。あらかじめ聞いていたことだが、論題は発表の30分前に知らされ、そこから自分で内容を組み立てて発表するという、過酷なシステムである。
 各組に与えられた論題は次のとおりであった。
【自学組】
・今、皆さんに一番伝えたいこと
・さらに大連を発展・飛躍させるための私の提言
【大学組(非日本語専攻)】
・これからの中日友好にもっとも必要なもの
・私はこうして逆境を克服した
【大学組(日本語専攻)】
・これからの10年後、私はこう変わる、世界はこう変わる
【社会組】
・これまでの価値観、これからの価値観、私はこう考える

 大外からは、大学組に出場する学部生2名、社会組に出場する研究生(院生)3名が決勝戦に出場する。社会組は、どの学生が金賞を受賞しようとも大外である。問題は大学組だ。
 Jさんは、決勝戦に向けて、7つの作文を暗記した。準決勝以上に、発音やアクセントに注意して指導した。質疑応答の練習もした。
 決勝戦の数日前に、学内の全体練習会が開催された。小生は講義の都合で欠席したが、その練習会で、Jさんは、強調点や声の抑揚をもっとはっきりするように指摘されたという。その指摘の後、Jさんは一人グラウンドに立ち、他学生の奇異の目をかえりみず、大声で練習したという。その後の練習では、見違えるようにメリハリの利いた声になっていた。

 しかし、今回の論題は、予想を大きく外れるテーマだった。
 大学組発表の直前、再びJさんの座席に行った。
 「何を発表する?」
 「『私の夢』でいきます。」
 「そうか。落ち着いてがんばってね。」
 『私の夢』は、日本語を勉強した自分の将来の夢を綴った内容だった。ある日本人専家の熱心な作文指導についてのエピソード、教師の姿勢についての中国のことわざなどを織り交ぜ、日本語教師になり、中日友好に一役買いたいという内容だ。しかし、10年後に自分がどう変わるか、さらに中日関係を越えて世界がどう変わるかについては、一切触れていない。ここをうまく発表できるかが焦点だった。

5.審査結果
 各発表のあと、審査員から1問ずつ質問がある。これにどう答えるかも大きなポイントである。つまり、発表内容は、各発表者ともあらかじめ作文を暗記して来ているので、若干論点がずれていても発表することはできる。とはいえ、何が飛び出すかわからない質問に的確に答えられるかどうかは、本人の日本語の理解力が試される。
 しかし、小生から見て、審査員諸氏には申し訳ないが、質問の内容がお粗末だったとの印象を拭えない。もちろんどんな質問でもいいのだろうが、発表した内容とまったく無関係の質問が多すぎた。中国側審査員の質問はまともだったが、日本側審査員はこういったことに不慣れなのかもしれないが、発表内容と無関係の質問をし、さらに発表者の多くは質問内容がつかめず、自分が発表した内容に即した回答をして、ちぐはぐな質疑応答が多かった。
 小学組、初中組、高中組の金賞受賞者の発表を含めて、すべての発表が終わったのは4時15分だった。
 審査結果を待つまでの間、3人の歌の披露があった(ここでもやっぱり歌だ)。
 M先生、I先生と並んで座った小生は、各組ごと、自分が審査員になったつもりで、金賞受賞者を予測した。
 その結果、予測どおり、自学組、大学組(非日本語専攻)、社会組は、順当に金賞が決まった。
 わからなかったのが大学組だった。これはひいき目が大きく働いて予測できなかった。順当にいけば、昨年3年生で銀賞に輝いたO君が金賞だ。これはM先生、そしてO君を指導したI先生も同じ意見のようだった。しかし、昨年来、Jさんの発表を聞いているM先生によれば、Jさんは、発音やイントネーションなど格段にうまくなったという。そしてもしかすると金賞を取れるかもしれないという。小生の期待は大きくふくらむ。また、この組に出場した遼寧師範大学の女子学生は、3年生ということもあり、発表内容、発音、アクセントどれを取ってもO君、Jさんよりやや劣っている印象で、O君、Jさん、あるいはJさん、O君の順位は確定的だった。


お疲れさん

 発表順とは異なり、審査結果は、小学組、初中組、高中組、自学組、大学組(非日本語専攻)、社会組の順で、一番最後の発表が大学組(日本語専攻)だった。しかも、プレゼンターは、大学組(日本語専攻)だけが大連市市長である。大学組(日本語専攻)がいかにこのキャノン杯で重視されているかがわかる。
 結果は、銅賞、銀賞、金賞の順に発表になる。
 「大学組、日本語専攻、銅賞、Jさん・・・・。」
 「なんと・・・・・。」

 結果は銅賞だった。銀賞は遼寧師範大学の女子学生、金賞はO君だった。
 これまたひいき目だろうが、M先生、I先生とも、この順位には納得できないと不満の声を漏らした。
 『悪くても銀賞』を信じていた小生、一気に脱力感におそわれた。

6.大外のメンツ
 日本語学院を持つ大外は、大学組(日本語専攻)で金賞を受賞するというのは至上命令のような感じである。
 発表会では、各大学の学長相当の方々も出席していたが、これは、金賞を受賞した学生生徒が所属する学校も同時に表彰されるからだった。
 大外からも、S副院長(ほかに院長はおらず実質的にはS先生が院長だが、まだ「試用期間」らしく公式には院長という肩書きではない)が来ていて、表彰の時にはステージに上がって賞を受けていた。大外は、今年もまた金賞を受賞し、何とかメンツは保たれた。
 全体写真を撮影した後、今度は大外関係者だけの記念撮影。
 どこにいたのか、日本語学院のS院長、R副院長をはじめ、その他の日本人専家も集まってきた。
 プログラムでは、この後、受賞者や主催者などの記念パーティが開かれることになっていた。
 4年生のJさんは、もう講義もなく、明日には出身地の上海に戻ることになっていたので、Jさんと会うのはここが最後かもしれなかった。そこで小生は、賓館に戻る前に、Jさんに一声かけて帰ることにした。

 Jさんは一言も言葉を発しなかったが、何かを訴えかけるようなまなざしだった。

 帰宅後しばらくして、一本の電話があった。Jさんからだった。
 「先生、ありがとうございました。そして、こんな結果で申し訳ありません。でも、私、今度は社会組に挑戦しようと思います。」[3/Jun/2002]

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