第13回大連市キャノン杯日本語弁論大会

1.それは3月下旬から始まった
 過去に大外に派遣された諸先生からもっともよく聞かされた行事がキャノン杯である。
 これはキャノン大連事務機有限公司がスポンサー、大連市人民対外友好協会が後援して、日本語を学んでいる人たちを対象に行う日本語での弁論大会である(決勝戦には大連市長も来賓として来るという。また、昨年は名誉委員長として御手洗キャノン社長も出席した)。
 部門は、小学生、中学生、高校生、日本語専攻学生、非日本語専攻学生、社会人、独学に分かれている。小学生から日本語を学んでいるということは、日本で、小学生から英語教室に通っているのと同じだが、中学校、高校の中には日本語の授業がある学校もある。それは、朝鮮族が多く住む地域(吉林省延吉など)の学校や朝鮮族が運営している学校である。大外にも、朝鮮族の学生がいる(各学年1クラス程度の人数)。
 大外の学生は、もちろん、日本語専攻学生の部に出場する。
 さて、キャノン杯日本語専攻学生の部は、正式には、準決勝が公式のスタートとなる。今年は4月20日である。会場は4つ星以上のホテルである。準決勝は全員中国人の審査員で、ここで発表者のうち上位3名が決勝に進出する。つまり準決勝は落とすための関門である。一方、決勝戦の審査員は全員日本人だという。決勝に進出すれば、必然的に金賞、銀賞、銅賞のいずれかの賞を受賞する。金賞には、賞金2,000元と副賞として一週間の日本旅行が贈られるという。学生にとっては貴重な体験であると同時に、おいしい大会でもある。
 ところで、過去の決勝戦のテーマは次のようなものだった。
第9回:1998年(ふたつのうちひとつを選択)
 ・もっと高い人生の価値を求めて
 ・私の幼いときの理想
第10回:1999年(ふたつのうちひとつを選択)
 ・私と日本語
 ・これからの日中関係のあり方
第11回:2000年
 ・今一番関心のあること
第12回:2001年
 ・思いやりの心とは

 このテーマについて発表できるのはたったの3名である。その決勝戦の前に準決勝戦がある。そして準決勝戦に出場するために、学内予選を通過しなければならない。さらに、後述するように、今年は学年の予選もあるので、実質的には、学年の予選からキャノン杯への道が始まるといっても過言ではなかった。

 3月中旬、日本語学院棟の掲示板に、キャノン杯学内予選会の案内が掲示された。
 『いよいよ始まるな。』
 予選会のテーマは、おおむね次のようなものだった。
 ・環境造りと大連の発展
 ・中日友好30周年について
 ・情報化社会と道徳
 ・日本語の勉強における悩み
 ・ワールドカップに期待すること
 3月下旬頃から、数名の学生が、小生を訪ねてくるようになった。いずれも、作文を添削してほしいというものだった。
 小生、日本語の教師ではないので、文法的に正しいかどうかは指導できない。考えてみれば、中学、高校時代に、日本語文法を学んだ記憶はあるが、日本語を文法的に理解しているかどうかはなはだ怪しい。とはいえ、日本語の文法いかんにかかわらず、日本語の表現としてわかりやすいか、「てにをは」が適切かどうかは、「感覚的」にわかる。したがって、学生にも日本語の専門家ではない旨伝え、わかりやすい日本語かどうかを添削の基本にするようつとめた。もちろん、表現よりも内容は重要である。内容については、学生と十分話し合って何がいいたいのかを明らかにするようにした。

2.緊迫の学内予選会
 4月4日、小生のもとに、副院長名で学内予選会の案内状が届いた。それによれば、4月6日、土曜日、午前8時30分から学内予選会が行われるので、朝8時に指定の場所に来てほしいという。
 昨年の学内予選会は、参加人数が多く(学生数が倍増したことによる)、予定の時間を2時間以上オーバーしてしまったため、今年は、学内予選会の前に、各学年の予選会を開いて絞り込みをかけて行うことにしたとのことだった。
 ノミネートした学生は47名。審査員は、小生を含む日本人専家9名、中国人教員5名の14名。
 当日8時から行われた審査員打ち合わせ会では、審査方法の確認が行われた。
(1)審査は、出場者一人一人について、採点表によって100点満点で行う。審査項目と配点は、態度(10点)、流ちょうさ(10点)、発音の正確さ(20点)、語法の正確さ(30点)、内容(30点)、計100点である。
(2)実際のキャノン杯では、4分間以内という制限時間があり、3分以下の発表では失格、4分を超える発表は減点になるという厳しい時間制限があるので、学内予選会でも、3分以下あるいは4分を超える発表は、内容について一律5点減点する。
(3)公平を期すため、最初の3名だけは、3名終了まで採点表を審査員が持ち、得点調整を行う。その後は、一人の発表が終わる都度、採点表を回収する。
(4)14名の採点表のうち、最高得点と最低得点を採点から除外し、12名の平均点をもって順位を付ける。
(5)予選通過人数は22〜23名とする。
 午前8時30分、401教室(日本語学院棟の大教室)で、予選会が始まった。
 最初に副院長から全体的な流れが説明され、審査員が紹介された。教室内には発表者を含め、ほぼ満員の聴衆が集まっていた(あとで聞いたところでは、1年生が数多く聞きに来ていたようだ)。
 発表順は任意に決めたとのことだったが、4年生から始まって3年生、2年生、1年生の順に発表するようになっていた。
 学内予選会は、あらかじめ与えられた5つのテーマからひとつを選択し、作文を書いて、発表するという形式だった。
 驚いたのは、ほとんどの学生が、原稿を見ずに発表したことだった。つまり、原稿をすべて暗記して予選会に臨んでいたのである。しかも最初に4年生が発表したため、そのうまさにのけぞるほど。採点には大いに苦労した。「態度」「流ちょうさ」はほとんど満点。点数の違いは「発音の正確さ」「内容」で差を付けるしかない。それも極端に低い学生はおらず、最高で97点、最低でも80点ぐらいだった。
 この予選会には、47名がノミネートしたが、当日は国家情報処理試験もあり、そちらを受験した学生も多く、結局、発表したのは38名だった。
 欠席者が多かったことによるのか、予想以上に順調に進み、11時20分には発表が終了。その後、審査員一人一人が簡単な講評を行い、すべての日程が終了したのは11時40分過ぎだった。
 予選会終了後、審査員と予選会を手伝った学生との合同の昼食会がもたれた。
 その中で、以前からいる日本人専家は、昨年より全体的なレベルは上がったといっていたし、副院長は、何とか決勝戦に3名を送り込みたいと話していた。
 それというのも、キャノン杯が始まった当初は、大外が上位を独占することが多かったが、近年、大連理工大学、大連民族学院、遼寧師範大学などで日本語教育に力を入れ始め、決勝戦に進む学生は大外ばかりではなくなった。昨年は、決勝進出者3名のうち、1名は大連民族学院の学生で、この学生は準決勝戦を1位で通過。決勝戦で、かろうじて大外の3年生が逆転して1位になったとのことだった(規則上、1位になった学生はそれ以降出場できない)。

3.特訓の日々
 4月8日、学内予選会の順位が発表された。その名簿には27名の学生の名前、得点とともに、日本人専家の名前が記載されていた。見れば小生は、4年生2名、2年生1名、計3名の学生を担当することになっていた。早速3名から電話連絡があり、準決勝に向けての練習日程を決めた。しかし翌日、大会本部から大外の出場枠は15名という連絡があったとのことで、16位から27位の学生は残念ながら準決勝には出場できなくなった。小生に割り当てられた2年生が該当していた。
 4月9日、4年生、JさんとCさんが、それぞれ約束の時間に来室した。どちらも女子学生である。そしてJさんは過去に2回、Cさんも1回の出場経験がある(レベルの高い学生が割り当てられたようだ)。基本的な指導方法は、テーマを与えて作文を書かせ、それを添削して、あとはその作文を暗記してもらうというものである。Jさんは、昨年は11本の原稿を暗記したという(すごすぎる!)。それぞれに聞くと、昨年の原稿を持っているという。それを預かりすべてを読み、その中から毎年出題されそうなテーマを3〜4本を選んだ。そして、学生には、学内予選会で指定されたテーマのうち、自分が発表したテーマ以外で、タイムリーなテーマの作文を書いてもらった(ワールドカップや中日友好30周年など)。どちらも6本の原稿を暗記することになった。余談ながらCさんは、昨年10月、短期交流学生として北星に滞在した学生だった(その後の練習中、何度か脱線して札幌や北星の話題で盛り上がった)。
 4月20日まで、実質的には10日ほどしか時間がない。作文作成を10日までに終わらせ、3日ほどの時間をおいて、残り1週間で4回ずつ発表の練習をすることにした。4年生なので講義時間は少ないとはいえ、小生も講義を担当している身ゆえ、朝8時に来てもらったり、夕方5時に来てもらったりと、調整がなかなか大変だった(後日、他の先生に聞いたところ、そんなに時間を割いたのはすごいと驚かれた。やり過ぎだったかもしれない)。
 二人とも会話の能力はすこぶる高く、最初の発表時には、どちらもすべての原稿を暗記していた。内容的には、昨年、作文の講義で別の先生に指導を受け校正した原稿だったのでほとんど問題はなく、したがって、直す部分は、細かいイントネーションや発音に限られた(東北出身の小生がイントネーションや発音を直すのだからお笑いだ)。
 気付いたことは、長音がうまく発音できないということだった。「インターネット」は日本語、しかしどうしても「インタネット」と英語の発音のようになってしまう。また、「チュウゴクジン」「ニホンジン」という言葉は、「チュウゴクチン」「ニホンチン」と発音してしまう。さらに「ちょうどその頃」の「頃(ころ)」は「今頃」の「頃(ごろ)」と混同して、「ちょうどそのごろ」と発音してしまうこともあった。これまた後で知ったことだが、こういった発音はJさんとCさんだけに限らず、すべての学生に共通する特徴だった。こういったことは、小生から見れば非常に些末なことである。しかし、コンクールである。正確なイントネーションや発音が要求される。JさんとCさんも、小生が指摘するとすぐに、何度も繰り返してそらんじていた。まさに、習うより慣れろ、である。
 発表の都度、時間も測定した。目標は、いずれの発表も3分30秒から45秒である。二人とも、練習では、3分30秒から50秒の間で終わらせることができた(同じ原稿を2回発表して、1秒も違わなかったときには思わず感嘆の声をあげてしまった)。
 2回の発表の後、本番対策として、ちょっとテーマを変えて発表してもらうことにした。
 準決勝は、発表30分前に2つのテーマが与えられるという。そのうち得意な方ひとつを選択し、30分間でまとめ上げ、発表する。初めて見るテーマを30分で4分以内の原稿にまとめ上げることは事実上不可能である。そこで、暗記しておいた原稿を下敷きにして、別の原稿からフレーズを持ってきたりして与えられたテーマに近づけるようにすることになる。これは日本人でも難しい作業である。
 そこで、それぞれ3回目の指導の時に、あらかじめ小生が考えた3つのテーマのうちふたつを選択してもらい、そのうちひとつについて30分以内にまとめ上げて発表してもらうことにした。ちなみに小生が与えたテーマは次の3つであった。
 ・今後の中日関係
 ・インターネット時代のマナー
 ・大連市に望むこと
 Jさんは、「今後の中日関係」「大連市に望むこと」を引いた。Jさんは10分程度で戻ってきて、「大連市に望むこと」を発表。3分30秒。一方、Cさんは「インターネット時代のマナー」「大連市に望むこと」を引き当てた。Cさんは15分後ぐらいに戻ってきて、やはり「大連市に望むこと」を選択。時間は3分50秒。内容的にも時間的にもまったく問題なく驚いてしまった。もしこのテーマが本番でも出題されたら間違いなく上位に入るだろうと思えた。

4.全体練習会の開催
 4月15日、副院長名で全体指導会を行うので出席してほしいとの文書が届いた。日時は4月17日、午後1時30分、会場は405室。
 全体練習会があるということは、Jさん、Cさんに聞いていたが、小生にまでお呼びがかかるとは思わなかった。そこには9名の日本人専家の名前が記載されていたが、講義の都合上、実際に出席したのは7名だった。
 学内予選通過者は15名だった。しかし、最後の15番目は、4名が同点で並んでいたため、この日の全体練習会で最後のひとりを決めてほしいといわれた。
 会場の405室は、普段は会議室として使っている部屋である。日本人専家が円卓を囲んで座り、学生が一人ずつ入ってきて発表し、学内予選会と同じように、採点表を用いて採点を行った。
 この全体練習会では、準決勝戦と同じように、発表30分前にふたつのテーマが与えられ、学生は内容を構成し直して発表に臨んだ。公正を期すために、発表が終わった学生はただちにその場を立ち去り、後に発表する学生にテーマを教えないような体制を作ったようであった。
 この練習会で出題されたテーマは、次のふたつだった。
 ・日本語を学んで〜忘れられない言葉〜
 ・これからの中日交流で大切なもの
 18名中、7名が前者、11名が後者を選択して発表した。最初の4名は準決勝進出をかけた15位決定戦だったが、3年生の学生が選ばれた。
 すべての発表が終わったのが3時20分。発表の後、学生を部屋に入れて、点数の集計結果を伝えながら、順位を発表した。
 小生が担当しているJさんは4位、Cさんは9位と、まずまずの結果だった(Cさんは時間をオーバーしたため、減点されても9位だった)。
 その後、各審査員が全体についての講評を行い、次に、一人一人について、語法やイントネーション、発音について細かな指摘が行われた。これはもう、短距離走でいえば、0.01秒の勝負と同じようなもので、聞き逃してしまえば何ともないことだが、落とすための準決勝という性格からいえば、ひとつのイントネーションの誤りが命取りになるのだろう。各審査員とも、各学生ごとに言葉のひとつひとつについて誤りを指摘して正した。それを学生たちは真摯な姿勢で受け入れていたことが印象的だった。
 結局、準決勝戦には、4年生7名、3年生6名、2年生2名が選ばれ、うち男子学生は4年生の2名ということになった。

5.準決勝戦そして決勝進出
 4月20日、準決勝戦の日。発表は朝8時。学生たちは、朝7時には出発するという。会場は希爾頓酒店(ヒルトンホテル)。
 小生、この日は先約があったので会場に行くことはできなかった。Jさん、Cさんにはその旨伝えて詫びた。そして励まして送り出した。
 4月22日、日本語学院棟の1階に赤の模造紙に書かれた掲示があった。
 「!」
 そこには、準決勝で、大外から2名が選ばれたことが書かれていた。そしてそのうちの一人がJさんだったのである。
 これを見たときにはさすがにうれしかった。
 その日の夕方、Jさんが来室した。
 Jさん「先生のおかげです。」
 小生「いえいえ、Jさんの実力と努力の成果です。」
 Jさんに聞けば、準決勝戦で与えられたテーマは次のふたつであった。
 ・大連に住む日本人への提言
 ・日本の文化の中で一番好きなものとその理由
 事前に準備した作文のテーマ、あるいは学内予選のテーマとは違っていた。しかしJさんは、中日友好30周年の作文に基づいて「大連に住む日本人への提言」を選択、発表したとのことだった。
 「先生、お願いがあります」とJさん。
 「先生、決勝戦までの指導を先生にお願いしたいのですが・・・。」
 「えっ?」
 「私は先生に指導してほしいと思ってます。」
 「いやー、決勝戦は準決勝より大変でしょ。ボクは日本語の専門家ではありません。それに、指導すべきことはすべて指導したつもりです。専門の先生に指導してもらった方がいいんじゃないですか?」
 「副院長とも相談したのですが、先生にお願いしたいのです。」
 ということで、5月29日、今度は場所を香格里拉酒店(シャングリラホテル)に移して行われる決勝戦に向けて、そして金賞を目指して、Jさんとの最後の戦いが始まったのであった(そんなに大げさではないか・・・)。[24/Apr/2002]

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