点字は、縦3点横2点の6つの点で構成された視覚障害者用の文
字である。原型はシャルル・バルビエ(Charless Barbier,1767〜
1841)が作成した凸点の「夜間文字」というフランス軍の暗号であ
った。彼はそれを1819年、パリ盲学校に紹介する。
当時、パリ盲
学校には生徒としてルイ・ブライユ(Louis Braille,1809〜1852)
が在籍していた。彼は、5歳で両眼を失明し、10歳でパリ盲学校に
入学したのであるが、1824年(15歳)に縦6点横2点の12点であ
ったバルビエタイプを改良し、視覚障害者が使用しやすい現在の形
態を完成させた。点字が開発されるまでは、線凸字や活字の凸字
(活字そのものを浮き上がらせたもの)が使用されていたため、晴
眼者が読めないという理由で点字の使用が禁止されるなど幾多の排
斥を受けるのである。
ブライユらの尽力が認められ、フランスで点
字が公認されるのは彼が亡くなって2年後の1854年であった。そ
の後、点字は欧米など各地へ普及していく。フランス政府は、その
死後100年も経過した1952年にようやく彼の偉業を称えるのであ
る。
日本では、東京盲唖学校教官の小西信八の依頼によって石川倉次
が案出したものが1890(明治23)年11月1日に採用・認定され、
今日に至っている。
※俗に点字ブロックといわれるが、よく考えると変
現在、欧米などでも見られる歩行補助具であるが、発祥は日本で、
1967(昭和42)年岡山に敷設されたのが最初といわれている。種
類は、道路などに敷設され、歩行路的な意味をもつ線状と、線状の
分岐・停止位置、階段・交差点などに敷設され、目印的な意味の点
状の2つがある。
※それぞれ誘導ブロック、警告ブロックと言われる。
ブロックの線・点の数や大きさはJIS規格化さ
れ、敷設方法に隠して国土交通省から指針が出されている。各自治
体ではそれらを基準とした敷設の条令を設けているところが多い。
ところで、このブロックの意義は周知されているが、限界や課題
も指摘されている。それは、触覚的な面では、場合によって、ブロ
ックか地面の凹凸か、線状か点状かの判別が困難となること、線状
ブロック上をたどっては歩行しづらいことなどがある。
また、社会
的な面では、視覚障害者に敷設ルートや利用法が周知されていない
箇所が多いこと、ブロックがあれば視覚障害者の歩行は安全だと認
識されがちであることなどがある。事故はブロックが敷設されてい
る環境でも起きている。
視覚障害者の単独歩行は、白杖、 もしくは
盲導犬を使用して行われるが、その安全性は、視覚障害者の歩行能
力に、ブロックとともにほかの安全設備、社会の援助なども加味し
て確保されなければならない。
目が見えない人を学問的にとりあげるようになったのは,1693年ロックにあてたモリヌークの手紙に端を発している。これを『モリヌーク問題』といって,まったく目の見えない人が突然開眼したとしたら,球体と立方体を目で区別できるだろうか,という問題であった。この問題は,バークレーやコンディヤックによっても論議されていくが,1749年ディデロによって『盲人書簡』が書かれ,注目されるところとなった。
この本の内容は,大きくは三つに分かれ,一つは,ディデロが観察したル・ピュイゾー地方のひとりの盲人のことが書かれ,第2には,数学・物理学者で著名な生来盲のニコラス・サンダーソン教授の数計算の仕方が書かれ,そして第3にはいわゆる『モリヌーク問題』についての論考がすすめられている。これは,盲人について興味ある多くのことがらや問題に関して書かれた世界最初のものであった。
19世紀になって,ヘラーが盲人心理に関する書をあらわし,はじめて盲心理学として発達することとなった。そこでは盲人の触覚や聴覚などの問題がとりあげられた。
目が見えず聾唖で聞くことも話すこともできなかったヘレン・ケラーが,文を書き,ことばを言い,大学をでて,生涯を障害者事業や盲人教育に捧げたことは全世界によく知られているところである。しかし,ケラー以前に,ローラ・ブリッジマンヘの教育成果があり,それがケラーの指導に継承されたこともあわせて注目しておかなければならない。
表1−1に示したように,ローラもケラーもともに熱病で視覚・聴覚を失い,育った境遇や性格,知能的な面も比較的よく似ている。ローラの場合は点字がまだ導入されていない時代であったことなどから,ヘレンの影に隠れているが,文も書き,手記の中には詩なども書かれている(図1−1参照)ほどで,世界最初の教育的成功に当時ほとんど奇蹟と考えられた。ジイドやディケンズらの書にもローラのことが書かれているのは,そうしたことを物語っている。
勘というとただちに盲人が連想されるほど盲人は勘がよいと思われてきた。ディデロが報告している盲人は唇と舌の先で針穴に糸を通したというし,ヘレン・ケラーは匂いによって入っていく家の種類やその人の仕事がわかるといっているし,宮城道雄は天気の加減で楽器の具合の悪いことがわかるといっている。筆者も図1−2のように,針に糸を通す事例を観察したし,テープを2倍速で聴取している盲人の例についてもみた。
黒田亮によれば,盲人の勘は『必要は困難の打開を生みだす』という結果であり,『彼らなりに自己に相当した方法で順応していく』という結果であらわれたものである。さらに彼によれば盲人における勘を日常のありふれた動作とか手先の器用さとかに限定して使用するならば塙保己一のようなものについては適用されにくく,保己一にも勘というようなものを認めようとするならば,動作における勘ばかりではなく,認識の判断作用というものにもこれを認めるべきである,といっている。
一方,弱視については勘というものはほとんど論じられたことはない。むしろ弱視は目の見える人の中にあって,見ることの不自由さや行動の失敗が目撃されたりして,勘という点ではあまりよくないように思われている。しかし弱視にも,生活の上で『彼らなりに自己に相当した方法』をもっており,盲人の勘に類したことはあると思われる。
勘に関連して盲人は感覚が鋭敏であると思われてきた。視覚の欠損は他の感覚を鋭くすると思われたのである。それで欠陥の『補償』とか『代償』とか『訓練』というとそれは何か感覚器の鋭敏さを養うことだと解されてきたところがある。当初,ヘレン・ケラーやローラ・ブリッジマンなどについて触覚の鋭敏さ測ってみた人もいる。しかし盲人が特に触覚が鋭敏であるという結論にはならなかったのである。聴覚においても,また味覚や臭覚についても視覚障害者が特にすぐれたという証拠はなかった。このようなことから視覚が欠如すると,それに応じて他の感覚がすぐれた弁別能力をもつということにはならないのである。しかしそれにもかかわらず現実のすぐれた行為や判断は何によるのか,それは視覚以外の感覚を利用して判断する習慣や能力が日常の経験によって得られているからなのである。視覚以外の感覚を利用して環境に適応する能力が訓練されたのであり,学習効果をもたない感覚生理的な弁別能力と学習効果によって発展した環境適応能力とは区別してとらえられなければならなかったのである。だから『訓練』という場合でもそれは感覚を鋭敏にするだけのことではなく,実は視覚以外の刺激を見分けるための学習や経験や習熟を重ねることだったのである。キャロルも感覚の鋭敏さと効率性は十分区別しなければならないといっている。
階段のように危ないところを歩くときはしっかり目をつぶって歩くんだよ
Franz (1841)が18歳の開眼青年(FJ)を被験者にして行った実験
その実験をみると,まず部屋の窓を一つだけ残して暗くし,開眼者(FJ)にその眼を閉じてもらって,残された一つだけの窓からの光が彼の背後からあたるようにした。
次いで,その眼前3フィートの位置に,さしわたし4インチずつの立方体と球を,ちょうど眼の高さになるようにして置いた。(右眼が使えないので)頭を脇の方に動かしてもよいと告げたあと,眼を開いてもらい,見えた通りの印象を言ってほしいと教示した。すると,FJはこれらを注意深く観察したあと,一方は「四角(square)」で,他方は「円板(disc)」と答えた。そこで,再び眼を閉じてもらい,「立方体」を取り去って,その代わりに同じサイズの「円板」を「球」の横に並べて置いた。眼を開いて2つを見比べるように告げると,FJはその違いが分からなかったらしく,「両方とも円板だと報告した」(Franz, p. 65)。
このあと,「ピラミッド」型の立体模型を一つだけ,その面の一つがFJの真正面を向くようにして置いたときには,彼はこれを平板な「三角」とみたようである。次いで,今度は「ピラミッド」の2つの面がFJに見えるような位置に置き直してみた。 すると,FJはこのときも長いこと観察し,考え込んだあと「これはまったく奇妙な形だ……三角でもなければ,四角でもなく,かといって円でもない」(同上, P. 65)と困惑しつつ答えた。
以上の視覚の実験が終わったところで,上記の3種の立体(「球」,「立方体」,「ピラミッド」)をFJに手渡すと,触覚を通して熟知していたこれらの立体が眼ではどうしても分からなかったことに,彼自身ひどく驚いたという。さらに,こうした幾何学的な立体模型だけでなく,あらゆる対象が彼には平板なものに見え,ひとの顔なども,鼻が突出し,眼は頭部に深く陥没していることを触覚を介して知っていたにもかかわらず,平板なものにしか見えなかったようだと付記されている。
2次元の形を多少なりとも見分けることができた場合でさえも,手術後初めて提示された立体に対して
1)立方体と球によって代表される二種の立体の区別が困難である
2)2種の立体の違いが分かったという場合でも,それぞれを触覚を介して獲得した名称をもって呼び分けることができない
3)立体とその構成面あるいは断面に相当する平面の形とを弁別することが難しい
イメージの知覚類同的性質を積極的に肯定し,われわれの内的表象が感覚・知覚過程と同型な処理機構の下にあると主張する研究者たちはイメージ派と呼ばれ,イメージ処理と知覚過程との類同性を実証する膨大な実験データを蓄積している。
一方,イメージの知覚類同的性質は,内的表象系の本性とはなんら関係ない。そのような体験はただの付帯現象に過ぎないとする研究者たちは,彼らが心的な思考過程を単一の命題的表象に還元しうるとしたことから命題派と呼ばれた。
このような背景の下で,イメージの知覚類同的性質を示した実験手続きを,視覚イメージの欠如していると思われる先天盲を対象として検討し,膠着したイメージ論争に新しい事実を提供しようとする一群の研究がある。こうした研究のいくつかを以下,三つの実験パラダイムごとに要約する。
一方が他方に対し,何度か回転しているような視覚刺激図形を2枚提示され,それらが同一のものか否かを問われるときに,異同判断に要する反応時間は,回転角度の増大につれて一次関数的に増加するという事実がある。シェパードとメッツラーはこのような現象が,われわれが,このような課題解決時に刺激図形をイメージとして保持し,イメージ内で一方の図形をまさに物理的に回転させるように操作することから起こるとした。このようなこころの内でのイメージの回転はメンタル・ローテーション(心的回転)と呼ばれる。 心的回転は視覚イメージの『視覚性』,絵的特性を示している証拠とされたが,先天盲ではこのような課題はどのように遂行されるのだろうか。マーモアとザーバックそして,カーペンターとアイゼンバーグは,先天盲の心的回転について検討している。 マーモアとザーバックは16名の先天盲と後天盲そして正眼者の大学生を被験者として,触覚刺激を用いる心的回転実験を行なった。 被験者の左手に標準刺激が,右手に,それが,0°,30°,60°,120°,150°,いずれかの角度で回転しているテスト刺激が与えられた。被験者は,右手に提示された刺激が,左手のものと同じものか,鏡映関係にあって回転しても重なり合わないものかを足ペタルで回答した。 結果は先天盲被験者の反応時間の変化にも,後天盲や正眼者(目かくし)と同様に,回転角度の増大に伴う,反応時間の一次関数的増大を示すことを確認した。先天盲にも,視覚イメージ的処理の証拠とされた心的回転が見られたのである。 マーモアとザーバックはこのような事実から,心的回転は必ずしも視覚イメージに限られた現象ではなく,より広く"空間表象"全般に起こりうる現象であるとしている。彼らは先天盲にも空間イメージが存在し,それは視覚イメージと同型の働きを持つものなのであると考えた。 カーペンターとアイゼンバーグも同様な触的回転課題(P,Fの文字を用いた)を12名の先天盲高校生で検討し,同様な結論を得ている。カーペンターらもこのことから,視覚によらない空間表象の存在が確認できたとしている。
カーはコズリンが開発した二つのイメージ実験パラダイムを用いて,検討した。 第一は,イメージ走査(scanning)である。25〜33歳,15名の先天盲被験者は,(イメージ操作の)図に示したような触知板上に配置された七つの対象物を記憶し,その中のひとつの対象物に注目しつつ,実験者の述べる他の対象物の在否をボタン押しで回答するように求められた。正眼者ではこのような事態で注目を求められた対象物と,在否を問われた対象物の距離が離れるほど,反応時間が長くなることが知られており,コズリンはこのような現象を,正眼者がイメージ内で対象間を,あたかも知覚対象にするよう走査している証拠であるとした。イメージ走査の現象は,イメージが視覚類同的な証拠であるとされている。 では,触覚的対象ではどうだったろうか。結果は先天盲にも正眼者と同型の,対象間の距離の増大に伴う反応時間の一次関数的増大がみられることを示した。このような結果からカーは,先天盲も正眼者と同様なイメージ走査を行なっているものとしている。 第二は,イメージ・サイズ実験である。正眼者では,大きなものと中くらいのもの(たとえば象と犬),中くらいのものと小さなもの(たとえば犬とハエ)をそれぞれ二つをペアーにして一緒にイメージさせ,中くらいなものの属性について質問する(『犬にはヒゲがあるか?』)とき,小さなもの(ハエ)の横にイメージされたもの(犬)の属性についての質問が,大きなもの(象)の横にイメージされたもののそれよりも速く回答されるという現象がある。コズリンは,心のイメージ空間には一定の大きさがあり,象の横にイメージされた犬は,ハエの横にイメージされた犬よりも小さなサイズしか持っておらず,そのことが属性の在否についての判断を遅らせるのであるとしている。彼は,このような事実からイメージにも,知覚世界での対象の大きさが保存されているのだとしている。 カーは,イメージ走査実験と同一の被験者に,上述したイメージ・サイズの課題を与えた。ただし対象はすべて触察経験のあるものが用いられた。結果は,先天盲にもイメージ・サイズの効果がみられ,大きなものの横にイメージされた対象の判断により長い時間を要することが示された。このことから彼女は,先天盲にも正眼者のような,大きさに限界のあるイメージ空間があり,そこに対象世界を表示しているのだとしている。先天盲のイメージは正眼者と同型の構造を持っているとされた。
たとえば,『自由の女神の持つタイマツの上にハープがある』という文からつくられるイメージと,『自由の女神の持つタイマツの中にハープがある』という文からのイメージには差があるだろうか。もしイメージがまったく絵的なものならば,前者のイメージには存在するハープが,後者では存在しないことになり,二つのイメージは異なることになる。またイメージが知識を表示する心のレイアウトのようなものならば,二つのイメージには本質的な差は存在しないであろう。 イメージの本性に関する論争の中に,イメージの知覚的性質が文字どおり絵的なものなのか,それとも実際の知覚に類似しているとしても,それは,対象の知識や予期を含んだ心のレイアウト(それは知覚の写しではなく知識の表示である)のようなものなのかという議論である。このような疑問に答るために,上述した『隠されたもの』(concealed object)の記憶が『見えているもの』に比して劣るのか否かが検討されている。現在のところ,結果は一致せず,『隠されたもの』の記憶が劣るとする絵的イメージ論を支持する結果と,『隠されたもの』の記憶に差はない(レイアウト派)とする結果の両方が提出されている。 レイアウト派のカーは,先天盲と正眼の大学生を被験者として,同様な課題で検討し,先天盲でも正眼でも『隠されたもの』と『見えるもの』間の成績に差はないとする結果を得た。彼は,イメージの本質が,絵的なものではなく,経験や知識を内に含んだ心のレイアウトである以上,両者に差のないことは妥当であり,われわれが感ずるイメージの『空間性』は決してイメージが視覚的であることを意味しないとしている。 一方,絵的イメージ派のジムラーとキーナンは,同様な課題,条件を用い,先天盲と正眼成人を対象に検討している。結果は,両者とも絵的文(『見えるもの』が書かれた文)の記憶が『隠されたもの』を含む文の記憶に優っていることを示した。ジムラーとキーナンはこのような結果から,先天盲のイメージにはなんらかの形で『絵的構造』が存在しているとした。 以上にまとめたように,多くのイメージ実験は一致して,先天盲のイメージ処理のパフォーマンスが,イメージ実験の手法によるかぎり,正眼者のそれと差のないものであることを示している。このような結論は,盲人の思考過程研究にとって示唆的であるにとどまらず,その『視覚性』に大きく引きづられてきた,イメージ研究の発想にも変更を迫るものとなっている。
欠陥説は,視覚経験の欠如する盲人には,空間の認識が困難である。彼らの空間概念には大きな欠陥が存在するとする説である。同型説は,盲人と正眼者の空間認識に表象系に起因するような根源的な差異を認めず,両者の差は空間処理のプロセスやストラテジーに還元できるとする説である。
まず『ミニチュア空間』を用いた研究からまとめる。ミラーは,平均6歳7か月,8歳7か月,10歳4か月の3年齢群各12名の先天盲児と正眼児を被験児として,空間イメージの操作について検討している。課題は,机上の板にひかれた1本の垂直線(15.5cm)のさまざまな位置からの『見え』を予想し,レーズライタで描くといった簡単なものであった。
予想条件としては,板が回転することを予想する条件と,自身が板の回りを移動することを予想する条件の2種が設けられた。被験児は0°(提示と同じ)から45°ずつのステップで板の回転あるいは自己の移動後の線の『見え』を予想再生するように求められた。たとえば,90°,270°の角度条件では,自身に並行な直線を1本書けば正答である。
結果は正眼児が一貫してある程度の予想再生が可能であるのに対し,先天盲児で,斜方向角度条件(45°,135°,225°,315°)の予想が直方向条件(90°,180°,270°)に比して大きく劣っていることを示していた。ミラーはこのような結果について,斜方向の予想再生には,空間を縦・横という2次元軸上にマッピングする広がりのあるイメジー系が必要であり,盲児はこのような空間についての二つの情報を,同時に処理する経験が乏しく,そのことが反応の大きな落ち込みとして現われたのだと説明している。同様な結果はミラー(でも示されている。
盲児に示されたと同様な欠陥は,盲成人の被験者でも示されている。クリーブスとローヤルは平均22歳9か月の先天盲,24歳4か月の後天盲,25歳5か月の正眼者,それぞれ12名を対象に,ミニチュア空間の記憶と変換のパフォーマンスを検討している。課題とされた手指迷路のひとつを(クリーブスとローヤルの)図に示した。被験者は手指を移動させ,迷路の全体について学習したのちに,迷路を撤去した空間に,迷路の出発点(S)と終点(G)を指示すること(単純再生),あるいは,出発点を基点として,迷路全体が180°水平または垂直方向へ回転した情景をイメージし,その際の迷路の出発点と終点を予想指示(イメージ再生)するように求められた。
単純再生,イメージ再生での平均誤差の値を求めたが,先天盲では,単純再生ですでに正眼者に劣っていたが,イメージ変換後の再生はさらに大きく劣ったものとなった。
クリーブスとローヤルは,空間概念の形成にとっては発達初期の視覚的な空間経験は必須のものであり,先天盲には,空間のイメージ変換を可能とするような正確な空間の認識は望めないとしている。
次に『実空間』を用い,欠陥説を支持する結果を得た研究をまとめよう。
ケイシーは,(キャンパス配置)図の上図に示したような,22個の建物が配置されているキャンバスの地図の再構成を17歳〜20歳の先天盲10名と弱視児10名に求めた。
(キャンパス配置)図の中・下図には,先天盲と弱視の典型的な再構成図を示したが,先天盲の再構成した地図は構造化されておらず,含まれている建物の数も少ない。それは複数の評定者によってその空間的体制化がもっとも未熟な地図であるとされた。
同様な結果は,より短い歩行体験の描画を,4名の11歳の先天盲児に求めた。ドッズ,ハワースとカーターにも示されている。(歩行体験)図に示されているように先天盲児の描いた地図は,後天盲児のそれに比して大きく劣っている。
ドッズらは,先天盲児が実際にはこの経路を正しく歩行できたことから,彼らでは,正確に歩行できることが,必ずしも正確な空間の表象形成にはつながらないとしている。
ミラー(注31)は,一辺19cmのひし形の4辺に配置された対象物(自動車のおもちゃ,人形など)を,すぐ上下(垂直条件)か左右(水平条件)に置かれた同じ大きさのひし形の各辺に移動させるという,きわめて簡単な課題を5歳4か月から12歳11か月の先天盲児12名と,6歳5か月から14歳9か月,誕生後12か月から18か月に失明した早期失明盲児12名に与えた。
被験児には何が正答かについての情報はいっさい与えられなかったが,配置図形(ひし形)全体の中での対象物の相対位置が移動後も保たれている場合を正答として結果を分析した。結果は年齢によって正答率に差はあるものの先天盲では,上または下に置かれたひし形へと対象物を移動する垂直条件に比して,左右のひし形へ移動する水平条件で,対象物と配置図形の関係が変化してしまう傾向が顕著なことが示された。発達の初期にわずかでも視覚経験を持つ早期失明盲ではこのような傾向はみられなかった。
このような結果は,先天盲が,配置図形を外的な枠組みとして,その中で対象物を位置づけるではなく,自己の運動手がかりのみに依存する方略を用いたせいであるとされた。
なぜならば,垂直移動条件では,被験児の身体軸と対象物の関係は移動の前後で不変(したがって自己運動手がかりのみで解決可能)なのに対し,水平条件では,身体と配置図との関係が移動の前後で変化するため,身体的手がかり以外の外的な枠組みに依存する反応が必要となるからである。彼女はこのような仮説から,先天盲が水平条件で大きく劣ったのは,彼らが一貫して自己の身体を基軸とした空間移動反応を行なった結果であるとしている。
ミラーは,このように誕生後わずかの期間の視覚経験の有無が,その後の空間問題解決方略の選択に大きく影響するとしているが,このような主張は,彼の研究で理論化されている。
フレッチャーは,3歳までに失明した7〜18歳,34名の盲人にモデル空間,実際の部屋の様子を触察あるいは歩き回ることで探らせた。探索は,被験者の自己アクションに忠実で,自由な探索が許可される条件と,時計とは逆回りの移動に限定された探索のみが許される制限探索条件で行なわれた。
探索の後に2種のタイプの質問が行なわれた。第一はルート質問で,『ポスターの貼ってある壁にそって歩いているとするとイスの次に何がある?』のように探索ルートに忠実な質問がされた。他に,『机のあるコーナーの反対側には何がある?』のように回答のためには全体の配置の地図化を必要とする質問を行なった(通常,前者のような,道をたどる移動に基づく表象はルートマップ,後者の図式的表象をサーヴェイマップと呼ばれる)。
結果は先天盲の場合,どのような探索を行なうかが,正答率に大きく効果を持っていた。自己アクションに基づく探索のみが,正しい地図的表象の形成を可能とした。本邦でも,佐々木は,空間のイメージ変換が能動的な触運動的探索の後には,先天盲でも可能であり,その正確さは同様な条件下の正眼者と差のないことを示している。空間体験の"能動性"は正しい空間イメージ形成のための一つの重要な要因のようである。