言語相対性理論 〜サピア=ウォーフの仮説〜

 

基礎演習 豊村ゼミ 1999.11.30 

  発表者 松尾 勉      司会 中嶋 正美

 

 私達が何かを考えるときには頭の中で無意識であっても言語を使用している。この事から言語無しの思考は難しく、また複雑な思考は言語無しには不可能であると考えられる。この言語と思考の関係に付いては古今様々な研究がなされてきた。今回、その中からサピア=ウォーフの仮説として有名な言語相対性の仮説を取り上げてみた。

 

言語相対性の仮説とは?

 

 言語相対性の仮説とは 大まかに言うと言語=思考という考えである。これはつまり思考が必ず言語を用いてなされるのならば、その言語の影響を思考が受けるという考えである。そしてさらに踏み込んで違う言語を用いているならば世界観も違うと考え、なんらかの形で言語を統一しない限り同じ世界観は得られないと言う物である。

これはヨーロッパ得にドイツにおいて伝統的な考えであったが、アメリカの言語学者であるEサピアの考察をへてその弟子Bウォーフの発表により非常に注目を浴びた。そのため2人の名前を取ってサピア=ウォーフの名前で呼ばれる事が多い。

 

サピアとウォーフの簡単な紹介

 

エドワード・サピア(1884−1939)はアメリカの言語学者であり心理学者でもある。インディアン語の研究にすぐれた功績を残し、文化人類学者としも優秀であった。言語の相対性については彼はドイツの言語思想の流れをくんでいたため、そこで出会ったものである。もう少し詳しく述べるとカリフォルニア大学時代のボアズの考えから非常に強く影響を受けているらしい。(ボアズについては未調査のため詳しくはわかりません)

 

 ベンジャミン・リー・ウォーフ(1897−1941)は防火工学の技師で火災保険の調査員等もしていたのだが言語学に興味がありサピアの元で彼の言語理論を学んだ。そこでサピアの言語相対性の仮説触れて彼の仮説を支持する論文を発表していった。

 

ウォーフは火災保険の調査員時代の経験から言語が思考に影響を与えていると思われる例をいくつか出している。なかなか面白い話もあるので少しここで取り上げてみたい。

湿った木 普段は灯油入れが置かれていてその下にあるために灯油で湿っていた木があった。ある日、そこの灯油入れが無くなっていたときに、そこにタバコが棄てられて火事となった。これは湿った木の上であるのでタバコを棄てても大丈夫であると言語を用いて思考したために起きた事故だと彼は考えた。

空のドラム缶 ガソリンを入れるのに使っていた空のドラム缶(empty gasoline drum)があり、実際にはガソリンが気化した燃焼性のガスで充満していたにもかかわらず、そのそばでタバコを吸って事故が起きた。これは英語のemptyが空のと言う意味のほかに危険性が無いと言う意味をも含蓄している結果だと彼は考えている。

 

 

サピア=ウォーフの仮説の2つの仮説

 

非常にわかりにくい題名で申し訳ないが、サピア=ウォーフの仮説について学ぶときにこれをしっかりと踏まえないと非常に混乱してしまうので述べておきたい。

1つの解釈はドイツの伝統的な言語思想からみられる思考=言語、つまり言語の無い思考など存在しないと言う物だ。これをサピア=ウォーフの強い仮説と呼ぶ。当初、ウォーフの論文はこの事に付いての支持する論文であると思われていたために注目を浴びた。これは非言語的な思考を認めない訳で、その言語で表現できない事柄は思考する事もできないという、思考が大きくその使用言語により制限されるという考えである。

その後、出てきたもう1つの解釈は非言語的な思考まで存在を否定しているのではなく、その存在を認めた上で言語が思考の内容に一部影響するという考えで、これは強い仮説に対して弱い仮説と呼ばれている。

以上のように同じ名前の元に2つの違った解釈があるため、このサピア=ウォーフの仮説は混乱しやすく、これについて学ぶときには言語と思考が同一のものであるという強い仮説と言語が思考に一部影響するという弱い仮説どちらについての事なのか良く考えて学ぶ必要がある。

 

言語と思考の実験の紹介

 

色についての実験

実は私も最初にこの仮説を知ったときに色を使って実験ができると思ったのだが、様々な学者がすでに色を使った実験をしているのでそれを少し紹介したい。

思考が言語と同一の物であり、その言語に無い物は考える事もできず、言語によって世界観が変わるのならば、その言語に無い色は認識ができないであろうと考える事ができる。

実際にはある色を見てもらって後から同じ色を再認してもらうという方法で実験が多くなされたのだが、結果は否定的であった。例えばニューギニアのある部族では色に付いての言葉は濃いと薄いしかない。もしも強い仮説が正しければ同じ濃さの赤と青は同じ色に見えるはずだが、実際にはそんな事はなく別々の色として認識する事ができた。また、どの言語、民族であっても、焦点色(真っ赤な赤とか真っ青と呼ばれる青などの事、普段使う原色とほぼ同義語と思って良いです)であれば再認がしやすくそれから離れれば離れるほど再認が困難になっていくという共通の結果が得られた。

しかし、その言語で表しやすい色であればより他の言語の使用者よりも再認がし易いという結果も出た。この結果は言語が思考の一部に影響を与えると言う弱い仮説の立証になり得るかもしれない。ただ、再認記憶の研究によると、はっきりとした手がかりがある方が記憶テストの成績は向上するという事なので、単にその色を表現する事がし易い=有力な手がかり、という事かもしれない。実際に再認率が低かったある色に付いて、その場でその色を表す言葉を作って覚えさせるだけで再認率が上昇したという実験もある。このへんは立証の非常に難しい所である。

 

非言語的思考の実験

これも非常にたくさんの実験があるのですがひとつだけ取り上げてみたいと思います。

聾者では特に幼少時において言語の習得が正常者に比べて著しく劣るのは論じる必要はないと思う。フランスの心理学者Pオレロンの正常児と聾児との比較実験では2つの物を与えてそれが同じ物か違う物か分けさせた所、聾児の方が正常児にくらべて明らかに劣っていたのだが7歳になると、その差はほとんど無くなったという。しかし、色や形、多きさなどでは差はないのだが重さなど知覚的な類似があまり目立たない物は認識する事が困難だったという。これは関係を理解する言語をもたないために思考の媒介として用いる事ができない結果であるといえる。

また、20cmの長さのものと30cmの長さのもので30cmのものをえらぶと褒美が貰えることを学習させ、つぎに30cmのものと40cmのものを選ばせたときにどちらを選ぶかという実験で、例えば30cmを選べばその30cmという絶対的な長さにもとづいて選択した事になるし、40cmを選べば、こちらの方が長いと言う関係から選択した事になる。動物を使った実験では少ない変化であれば(30cmから40cmなど)関係から選び大きい変化(30cmから急に2mなどの変化)であれば絶対的な長さにもとづいて選択した。

では人間の場合ではどうか?これは3歳では割合は半々だが6歳くらいまでにほとんどが関係にもとづいて選択をするようになる結果がえられている。これは6歳であれば長い=短いという関係の言語をもっているからと思われる。

聾児でも年齢と共に関係にもとづいて選択するのだが、速さの変化での実験では著しい困難をしめした。これは知覚的な変化の認識が速さは難しいために速い=遅いという関係を言語を媒介とせずに思考する事が難しいのだろう。ただ、オレロンはこの実験で速さの関係を手振りでするように指示した所、聾児達も関係にもとづいて選択する事ができたので、言語以外にも思考の媒介になる事がありえるということを示したといえる。

 

サピア=ウォーフの仮説に対する私の考え

 

強い仮説に対してだが、先ずこれは言語が先か思考が先かという大きな矛盾点をもっている(サピア=ウォーフ以前の言語相対性の仮説の研究者であるドイツの言語哲学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767−1835)は、その民族の精神(ガイスト)から自然に発露したもの、と説明している)。また、我々は翻訳された海外の作品をその言語による世界観の違いなどを考える事もな読む事ができる。また前記した色の実験における焦点色の言語を超えた正しい認識等から私は否定的な立場である。

 

他方、弱い仮説に関しては慎重ながら支持する立場をとりたい。

前記したオレロンの実験でも分かる通り非言語的思考は確実に存在すると思われる。しかし私たちが物を考えるときに言語を媒介として、非常に有効な道具として使用している事は否めない事実である。私達が何かを作るときにただ手作業でするよりも有効な道具を使用した方がより複雑なものを作る事ができるように、また何処かへ行こうとするときに歩いて行くよりも車に乗った方がより速く着けるように、何かを思考するときに言語がある事によってより複雑な思考が可能であると思えるからだ。違う道具(言語)を使えば多少なり結果が違う事もありえるだろう(例えば目的地に行くのに飛行機を使った場合と車の場合では着く時間が違うし、工場の機械で生産される車なども自宅に家庭用の機械を買ってきて作る車などとは性能がまるで違うだろう)。以上の事から私は言語による思考へあたえる影響は一部あると思う。

    A                     B

                                ←A言語B言語それぞれの世界観

 

                   

                                ←言語の習得(それぞれA言語B言語)

                                 

                             ←非言語的思考による世界観

                                        

上の図のように考えると非言語的思考による共通の世界観があり、その共通の世界観の上にそれぞれの言語を媒介とした複雑な思考により異なった世界観になると考えると、基本となる世界観が同じなのだから、それほど大きく異なった世界観が言語によって生じるとは考えにくいので私は弱い仮説を支持をするが現段階では慎重な立場での支持にならざるをえない。

 

 

〔引用・参考文献〕

 

・講座・現代思考心理学 1巻 思考と人間 滝沢 武久 編 明治図書出版 1967

・言語心理学のすすめ 入谷 敏男 著 大修館書店 1983

psycholinguistics:A New Approach David Mcneill著 1987 ――心理言語学 鹿取 廣人 他訳 サイエンス社 1990

認知心理学 3 言語 大津 由紀雄 編 東京大学出版会 1995

サピアの言語論 平林 幹郎 著 けい草書房 1993

Language.---An Introduction to the Study of Speech. Edward Sapia 著  1921 ――言語 泉井 久之助 訳 紀伊国屋書店 1957

Linguisutic Relativity versus Innate Ideas  Julia M.Penn 著 1972 ――言語の相対性について 有馬 道子 訳 大修館書店 1980