基礎演習レポート 1999/10/12 発表者 葛西 隼人   司会者 山川 和真

 

 今回のテーマは十人十色の答えが飛び交い、またそれぞれの答えが真実となり得る、現代においても非常に難解であり解明されていない領域のことなので今回の発表では至らない点が数多くあると思うが、あるヒステリー患者に対して効果をあげた<無意識を意識化させる>という画期的な治療を施し、現代の深層心理学(精神分析)の基礎を築いた『フロイト』の考えを中心に基礎的な知識、ごく一般的な学説を紹介していこうと思う。

 

〜深層心理学と精神分析学<「精神分析」には2つの意味がある>〜

 この2つはしばしば同義語として扱われる。深層心理学は心理学の特定の分野を指す言葉ではなく、心理学的な考え方や方法を意味する。このため多分に曖昧な意味も含んでおり、精神分析学と同義ととらえることも、間違いではないだろう。また、フロイトが心の中の無意識を意識化させる方法を精神分析と名付け、やがて彼の確立した心理学的な考えそのものを精神分析学と呼ぶようになった。このようなことを考えると、精神分析には2つの意味があり、ひとつはフロイトの心理学を、もうひとつは深層心理学を指すことになる。前者の意味は、精神分析は深層心理学の中に含まれることになり、後者の意味ではこの2つは同義であるといえることになる。

 

〜深層心理学で扱う無意識とは?〜

 私たちが日常よく使う「無意識に…」が、全て深層心理学で言う「無意識」に当てはまるわけではない。「無意識に…」の後にはたいてい「…する」という動詞が続き、意識せずに行動する、あるいは考えずに行動するといった意味合いが強い。例えば、「箸は右手に…」や「靴は右足から…」等と考える人はほとんどいないだろうと思う。よって、こうした行動を心理学的には学習された「習慣」として扱い、「無意識」とは別と考えられている。また、こうした「習慣」も含め、その時に意識されていなくても意識しようと思えば意識することが可能な心理(忘れていても思い出そうとすれば思い出せる普通の記憶等)は「意識」と「無意識」の間に位置するものとして「前意識」あるいは「下意識」という言葉で呼ばれている。したがって、深層心理学では意識しない行動(習慣)を問題にするのではなく、私たちの心の深層に潜み自分ではなかなか気がつかない、あるいは存在することを認めたくない心理を「無意識」として主な研究対象にしている。しかし、無意識は意識化されなければ知ることができず、研究することもできない。そのため意識化する方法として、あるいはその手助けとして、ある特定の時に現れる癖、言いまちがい、書きまちがい等の無意識的な行動を問題にする場合がある。まとめると、深層心理学とは「意識」とその下層にあると思われる「前意識」「無意識」の存在を認め、それぞれの相互作用による心の働きを研究する学問ということになる。

 

―深層心理学と精神分析学―

 

                                    精神分析学

フロイトの心理学

 

  深層心理学

        

前意識 「精神分析学の概念で、意識されていないものの、思い出そうと注意を向ければ思い出せるもので、いつでも意識の中に入り込めるもの。」(心理学辞典 1999年)

下意識 「意識されておらず、意識の下にあるものという意味であるが、一般には二つの異なった用いられ方がなされている。一つは、はっきりと意識されてはいないものの無意識とは異なり容易に意識にのぼりやすいものを指す。もう一つは無意識と同じ意味で用いられる。」(同 心理学辞典)

〜フロイト〜

 ここでは、前項でも何回か登場してきた〈フロイト〉という人物について簡単に紹介する。

S.フロイト(1856〜1939)享年83歳

オーストリアのユダヤ人精神医学者。前項でも書いた通り精神分析学の創始者でもある。また、彼の 有名な著作として「夢判断」(1900)、この中に「夢分析」が展開されている。この当時チューリッヒのブルクヘルツリ精神病院に勤務していたユング(1875〜1961)は、「夢判断」を読み感銘を受け1906年頃から彼との交流が始まった。自分より19歳若く、非ユダヤ人(スイス)であったため精神分析がユダヤ人特有のものと見なされることを危惧していた彼にとって、非ユダヤ人でしかも世界的に有名な精神病院の医師であったユングとの出会いは願ってもないことだった。1910年、国際精神分析学協会が設立された時彼はユングを初代会長に据えた。2人の仲はまるで父子のようであったと伝えられている。その後、フロイトは人の精神は「意識」「前意識」「無意識」(1915、33)の3つから成るという、精神分析学の基本的な考えを提唱した。しかし、後にこの考えに修正を加え、「エス(イド)」「自我」「超自我」(1936)という三層構造を提唱している。また、この三層構造を提唱する以前に、有名な「エディプス・コンプレックス」の考えを発表している。しかし、ここらへんの考えが出された頃から2人の考えに違いが生じ始め、後に深層心理学を二分することになる。この2人の訣別後、ユングは自分が確立した心理学をフロイトと区別するため「分析心理学」と名付けた。また他にもフロイトを支持していたにもかかわらず、ユングと同じく訣別をして独自の心理学を確立した人物に日本ではいまひとつ影の薄いアドラーがいる。彼の心理学を「個人心理学」と呼ぶが、ここではフロイトを中心に考えていくのでユングとアドラーについてはこの程度の紹介にしておく。

 

 

 

 夢分析 「夢解釈ともいう。夢が何らかのメッセージを伝えているのではないかという考えは古代からありしばしば占いや呪術といった形で受け入れられていたが、フロイトは夢が主体の心理的世界をよく表していると考えて科学的な研究の対象としたもので、夢は睡眠という意識の統制が弱まった状態下で抑圧されていた無意識が浮上してきたものであり、自由連想法とともに「夢判断は無意識を知る王道である」という。そして、ばらばらでまとまりのない夢も実際はある意味を担っており、解読されるべき心理的現象であるとした。」(心理学辞典 1999)

 エディプス・コンプレックス「精神分析学の鍵概念で、男児が母親に愛情を、父親に憎悪を無意識のうちに向けるという複合感情。エディプスという名称は、父親と知らずに実父を殺害し、母親と結婚したギリシヤの神話に登場するエディプス王に由来する。女児の場合、エレクトラ・コンプレックスという。」(心理学辞典 1999)

 

 

 

         人の意識は氷山の一角 

〜「意識」「前意識」「無意識」<海面下に前意識と無意識が…>〜

 人の心の深層には抑圧された無意識が存在し、それが人の精神生活および行動に大きな影響を与えていると考えられている。このことは1ページにある〜深層心理学で扱う無意識とは?〜にあるように、私たちの心の深層に潜み自分ではなかなか気づかない、あるいは存在することを認めたくない心理を「無意識」と呼びこれらは、「無意識」と呼ばれるだけあって、ある特定の時に現れる癖、言いまちがい、書きまちがいなどがありこれらの軽い症状にとどまれば精神生活および行動に大きく影響を与えることはない。しかし、これらの症状より重い場合は精神生活および行動に影響をもたらす。例えば、心理学パッケージpart3(P136)に書いてあるようにある3人の子供を持つ母親がカウンセラーの所へ訪ねていって、チック症の子供に対して他の2人の子供と同様に愛情を注いだつもりなのでその子だけを差別したりしたことはない等と言って、チック症になるような特に心理的な原因は見当たらないと強調し、自分にはなぜこういうことになっているのかがわからないという風であったが、面接回数が増えるに伴い「実はあの子をかわいいと思って育ててこなかった。」と言っている。それは背景には様々な理由があり、その子が生まれてすぐに他界した自分が苦労させられた姑に似ていたために、苦労をさせられていつのまにか憎しみに変わっていた感情が、無意識にその子に向けられ、でも自分の子供なので「かわいがらねば…」という義務感が生まれ、そのチック症の子を無意識に拒否していたのである。これは自分の考えだが、子供を拒否するという行為は一種の虐待ではないかと思う。しかし、この人の場合はその虐待ともいえる行為を無意識のうちに行っていたのである。このようになると精神生活および行動に大きな影響がもたらされる。なぜこのようなことになるのか?フロイト(1915,33)は人の心を意識、前意識、無意識の3つの部分に分けて考えた。意識は海面に浮かぶ氷山の一角にたとえられることが多い。心の全体を氷山にたとえると、日常私たちが意識している部分は海上に出ているほんの一部である。海面下にはその数倍の体積の氷塊があり、これが前意識と無意識を構成している。海面が波立つと、普段海面下にある氷塊の一部は海上に現れる。こうした部分、すなわち現在意識されていなくても抵抗なく意識することが可能な部分が前意識である。常に海面下にあって、海上に現れる可能性がほとんどない部分、これが無意識である。この部分を海上に出すためには、持ち上げる、ひっくり返す等、人為的、物理的な力を加えなければいけない。この行為が、無意識を意識化させようとする精神分析だといえる。

 

〜無意識を深層に閉じ込める本人の意識〜

 意識は必ずしも継続しているわけではない。今意識していたことも、次の瞬間には忘れられ前意識へと変わる。また、意識せずに行った行動でもその理由を考えると容易に意識することができるし、昨日のことは今忘れていても思い出そうと思えば思い出すことができる。このように意識と前意識との間には決定的な境界はなく流動的である。これに対し、無意識は心の深層に閉じ込められており、本人が意識することは容易なことではない。なぜなら、無意識を閉じ込めたのは本人の意識そのものだと考えられるからである。何のために?それは意識上に現れては不都合な心理だからである。思い出したくない心の傷や意識上に現れると社会生活に支障をきたすと考えられる反社会的な心理など、本人が自分自身の心の中に存在していることを認めたくない心理は、もともと自分の心の中にはなかったもの、あるいは消し去られたものと思いたい。しかし、心の中身を消し去ることは不可能で、こうした認めたくない心理は次々に無意識として深層に閉じ込められるのである。

 

 

 

 

 

 

       人の心は「エス」「自我」「超自我」の三つで成り立つ 

〜もうひとつの無意識〜

 フロイトは抑圧された無意識を意識化することによって患者の精神的な異常を治療していくうちに、稀に意識化に成功したようにみえても症状が悪化し、患者自身が治療を拒んでいるかのようにみえる症例があることに気がついた。このことからフロイトは、意識の中に無意識の意識化を妨げようとする心理が働いており、しかもそれは患者自身が意識することのできない、心の深層に閉じ込められた無意識とは違った種類の無意識であると考えた。なぜなら、抑圧された無意識には反社会的な欲求が含まれており、それを意識化することは欲求のままに反社会的な行動をすることと同等のことであり許されないことだと患者が無意識に感じているかのように思えたからである。そこで、フロイト(1936)は通常の外界に開かれた意識を「自我(エゴ)」と呼び、自我を監視し良心的な自我へ導こうとするこの心理を「超自我(スーパーエゴ)」と名付けた。また、無意識に内在する欲求も含め人のあらゆる原初的な欲求を「エス(イド)」と呼ぶようになった。

 

〜心は三つの部品からなる機械?〜

上の考えが生まれるまでは、心の構造は「抑圧する意識」と「抑圧される無意識」の対立関係で考えられていたのに対し、「エス」「自我」「超自我」という三つの部品からなる一つの機械のようなものであるという「心的装置論」に修正され、「意識的」「前意識的」「無意識的」というふうに形容詞的用法に変化した。さて、心が三つの部品からなる機械のようなものだと仮定すれば、それぞれの部品は一定の役割を果たしていなければ機械は正常に作動せず、一つが欠けても、あるいはそれか一つが働き過ぎても異常をきたしてしまう。すなわち「エス」「自我」「超自我」は、どれもみな人の心に必要で大事なものであり、それぞれの連携作動によって精神生活が成り立っていると考えられるのである。

 

本能的な欲求―「エス」の働き

〜人を動かしている根本的な部分〜

 「エス」というの言葉はドイツ語で、英語のit(それ)にあたり、グローデックという医師が『エスの本』という書物からフロイトが霊感を受けて命名したといわれている。『エスの本』の中でグローデックは「人は意識的に生きているのではなく、実は非人格的な力が人を生かしているのだ」といった意味のことをかいている。フロイトはこの「非人格的な力」を人の原初的な欲求ととらえ、それを第三者的に「それ(エス)」と呼んだのであろう。「エス」が英語に訳された時に、なぜかitではなく同義のラテン語であるid(イド)と表記され、以降、フロイトのこの概念は「エス」または「イド」と呼ばれている。「エス」は無意識的な心の働きだが、まさに「人を生かしている」根本的な部分といってよいだろう。生まれたばかりの赤ん坊は、ただ生存するために欲求を満たそうとして行動する。不快を避け、快を求めようとするのも生存するための本能的な欲求である。こうした欲求、あるいはそれは満たそうとする心の働きが「エス」である。フロイトはこの働きを、人の誰もが根本的に持ち合わせているものとして「快楽原則」と呼んでいる。人は何らかの欲求を生じた時、その欲求を満たそうとして興奮状態、あるいは緊張状態に陥る。この状態は、決して心地良い状態ではなく、できるだけ早く解消したい状態なのである。解消する最も簡単な方法は、その欲求を満たすことであり、そうした方向へと向かう心の働きが「快楽原則」に基づく「エス」のはたらきである。

 

意識的かつ無意識的な「自我」の働き

〜自我はエスをコントロールする〜

 生まれたばかりの赤ん坊の心は「エス」「自我」「超自我」の三層に分かれる前の未分化状態であると考えられる。この状態では「エス」のみが心の全てを支配し、外界に関係なく自分の欲求が満たされることだけを目的としている。例えば、食欲を感じるとお乳が与えられるまで泣いて不快感を表現しつづける。ところが、成長して知覚が発達してくると、知覚を通じて外界と接触するようになり、「エス」の一部が変化して「自我」が形成されてくる。「自我」も「エス」が感じた欲求を満足させようとする方向に変わりはないのだが、外部の環境を考慮してより効果的な方法を模索しようとする。また、外部環境から考え、とても満たされない欲求である判断した場合、違う欲求にすりかえるなどの操作をし、「エス」をコントロールする。赤ん坊も半年ぐらいになると、空腹で泣いていても母親からお乳をもらえそうな気配を感じるだけで、実際にはまだお乳を口にしていなくても泣き止むようになる。「自我」が形成され、満足の予測ができるようになったわけである。「自我」は外界との接触が盛んになるとさらに成長し、自分を取り巻く現実を認識し「エス」の欲求をコントロールしながら現実に対応していくようになる。こうした「自我」の働きをフロイトは「エス」の「快楽原則」に対し「現実原則」と呼んでいる。フロイトはまた「自我」の「エス」に対する関係を、馬を操る騎手に例えて説明している。すなわち、運動のエネルギーは馬によって提供されるのだが、騎手は馬が勝手な方向へ進まないように制御しなければなあない。人馬が一体となって目的の方向へ進んでいれば問題はないが、馬が言うことを聞かない場合もあり得る。こしたときに、騎手は馬を鞭で脅して無理矢理言うことを聞かせることもあるし、また暴走する馬から落ちないようにするのが精一杯で馬の進むに任せてしまうこともあるかもしれない。「自我」は主に意識的な側面を持つとされていいるが、こうした「エス」との葛藤や妥協など無意識的な領域で働くことも多い。

 

「超自我」は道徳原則で自我を監視する

〜超自我は裁判官?〜

 子供は普通、親の庇護のもとに成長するが、その過程で「してはいけないこと」などの道徳的な考えを教えられる。子供がこうした考えを自分のものとして受け入れるのは、自分を庇護してくれる親の愛を失うことを恐れ、自分自身の心の中に親と同一化した心のチェック機構を構成するためであろうと考えられる。外界との接触によって「エス」から分化した「自我」はさらに自分自身のチェック機構としての「超自我」を形成するのである。この「超自我」が形成され始めるのは3〜4歳頃で、この年頃は親にとって、ちょうど子供が少しものわかりがよくなったと感じられる時期である。フロイトは「エス」「自我」の働きをそれぞれ「快楽原則」「現実原則」と呼んだのに対し「超自我」の働きは「道徳原則」と呼んでいる。フロイトはまた「超自我」の働きを「われわれの心的機構の司法的審級」とも表現している。

 

 

            「超自我」はイイ子?

 「超自我」は「自我」の行動を監視する、まさに良心であり道徳感であるのだが、同時に「自我」に対して「こうあれべきだ」という理想を押しつける役割も持っている。「自我」のあらゆる行動の源は「エス」から生じる欲求であるが「超自我」が働きかけるのはあくまでも「自我」に対してである。上の馬と騎手の例えで言うと、「超自我」は「エス」という馬が進む路上にある交通標識のようなもので、馬にはまったく理解することができない。馬を操る「自我」という騎手がその意味を知りそれに従うように馬をコントロールしなければならないのである。こうしてみると、一見人の精神生活の頂点にあるかのように思われる「超自我」だが、「超自我」は「自我」から分化したものであり、それ自体の行動エネルギーは持っていない。すなわち、人が生きることの根源は「エス」にあり、「超自我」の規制と理想を受けて「自我」がそれぞれの働きををコントロールすることによって、人の精神生活が成り立っているのである。

 

 《引用・参考文献》

渋谷昌三(山梨医科大学教授)監修  高山清和 著

深層心理学がわかる本 日本文芸社 (1999)

中島義明 安藤清志 子安増生 坂野雄二 繁桝算男 立花政夫 箱田祐司 編集 

心理学辞典 有斐閣 (1999)

心理学パッケージpart3、現代心理学の基礎と応用(教科書のため著者、出版社、発行年省略)




―自分自身の学習においての過程、感想、まとめ―

―自分自身の学習においての過程、感想、まとめ―

 この発表で、<意識と無意識>に関して深層心理学とフロイトが創始した精神分析学を中心にもう少し内容をおもしろくしていきたかったが、実際にいろいろな文献を探していくうちに、いきなり自分がおもしろそうだと思ったフロイトやユングの学説をレジメに書いて紹介しても彼らは(今回に関してはフロイトのみ)いままで紹介してきた現在の深層心理学の基礎となっているこれらの基本的な考えもとに興味深い学説を発表しているので今回のような本当に基本的な知識を全く知らないままで論じ合おうとしても言葉についての質問だけになってしまうような気がしたためこのようなあまりおもしろいとは程遠い内容になってしまいました。そして、今回の発表で、深層心理学とは私たちが幾ら考え合ったとしても一つだけの答えが出てくるものではなく極端に言えば全員の答えが全て真実となり得る領域の分野の話しなので、その無限にあり得る答えの内、心理学の歴史の中でも有名なフロイトを話題の中心に展開しました。そこでフロイトもある意味で同じ1人の人間としての答えとして心に留めてもらえたなら今回の発表はまずまずの成功だと思います。

 

 

 

―講義中のQ&A―

赤ん坊は「エス」しか持たないのですか?

フロイトのこの時点での考えとしては、赤ん坊は「エス」しか持ちません。レジメにもあるように生まれたばかりの赤ん坊の心は「エス」「自我」「超自我」の三層に分かれる前の未分化状態であると考えられるからです。

欲求を満たそうとする心の働きとは何か?

元来、人間に限らず動物は本能というものを持っています。本能とは食欲、性欲等の欲求を満たしたいと考えるものであります。従って本能のままに生きるというは人間社会においては少々問題のある行為でありますが、人間は上にもあるように赤ん坊の頃は「エス」のみと考えられその後、成長していくに従って「自我」「超自我」なるものが完成し社会に適応していきます。しかし本能なるものがなければ、欲求も生まれません。そこで心の働きの中では「エス」というものが本能の一部を指すと思われるためここでの答えは本能であるということになります。

「エス」が本能ならば、本能(考えずに行動するから)=無意識なのか?

一概にそうとは言えません。上の説明にもある通り「エス」が本能すべてを指すわけではなく本能の一部を指すと思われるからであります。

外部の環境から遮断されると「自我」が形成されず「エス」のみになってしまうのか?

これに関しては、フロイトの考えによれば「エス」のみになってしまいます。なぜなら、赤ん坊の時点では「エス」しか持たずその後、親を見本に「自我」を形成していくと考えられているため、外部の環境から遮断されると「自我」は形成されないと考えられます。また、真偽のはっきりしない話ではありますが、有名な例で説明すると「狼少年」がわかりやすい例だと思います。

「自我」が人間特有のものであれば他の動物は「エス」をコントロールできないのは?

これに関しては特別調べてもいませんが、個人的な意見として「自我」とは極端な分類の仕方をすれば、「理性」にあたると思われます。よって動物は我々と同じ言語を持たないため解明は難しいですが、現時点では動物には「理性」はないとの解釈が一般的であるため、動物に関する「エス」を極端な分類をすれば本能であるため特に「エス」をコントロールする必要性はないと思われます。

では「躾」等での「エス」をコントロールしているように見えるがなぜか?

基本的にフロイトの考えによると、人間は「自我」が意識のほぼ全体を占めるため本能を抑えこむことが可能であるとしている。ここからは自分の考えだが動物の場合には「エス」がほぼ全体を占めるのではないかと思う。しかし、動物には全く「自我」が形成されないかと言われると、全くそのようなことはないとは言い切れない。

無意識を閉じ込めたのは本人の意識とあるが、この無意識とは一度意識に上ったものなのか?

レジメからいうとそういうことになります。一度意識下に上ったうえでその意識が「超自我」の検閲を受け、その検閲にうまく通らない場合は無意識を閉じ込めます。

では反社会的な意識が無意識になったとして、この無意識は4ページの心の深層に閉じ込められた無意識〜と矛盾するのでは?

3ページのレジメと4ページのレジメでは発表された学説の年代が違うため後の考えとしてもう一つ別の無意識が存在するのでは?という仮説なので多少の矛盾は生じると思います。

親と同一化した心のチェック機構とは?さらに自分自身のチェック機構とは?

赤ん坊の例で説明したように親を見本に「自我」「超自我」を形成していくと考えられているので、それと同じようにチェック機構とは「…してはいけない」「…してもよい」などの判断を下す基準を親と同一のものにするということであります。さらにそれを発展させていったものが自分自身のチェック機構であります。

「自我」が「超自我」を利用し「エス」を抑えこむ力は個人差があるのですか?

そういうことになります。「エス」をコントロールできない場合は極端な話し殺人を犯してしまったりと、悲惨な結果を引き起こしてしまいます。それはレジメにあるような馬の例えで説明すると、騎手(自我)が荒れ馬(エス)に振り回され、標識(超自我)を騎手が理解できたとしても馬にしがみついて乗っているのが精一杯で馬の暴走するままに…。ということになるため、もちろん各個人で騎手の力量は違うと仮定されるので個人差は必然的に生じると思われます。