フロイトの見た夢

発表者 田畑 潤司   司会者 豊村先生

 

私たちが毎日のように見る夢には,現実的なものや空想的なものなどさまざまであるが,夢の中にはいったいどのような意味があるのだろうか。次に示す夢は,フロイトが『夢判断』のなかで,自分の見た夢を取り上げて自己を分析しようと試みた「ヨゼフ伯父の夢」と呼ばれる有名な例である。フロイトがどのようにして夢を解釈し,自己を分析しようとしたのか見ていこうと思う。

 

「ヨゼフ伯父の夢」

背景

1897年 フロイト42歳 …フロイトはウィーンの教授に推薦されていたが,ユダヤ人で      あるために教授に任命されない事を知っていた。この時,同僚であるR(フロイトと同じユダヤ人で,教授候補。)と会った日に見た夢である。

夢の内容

1 同僚であり友人のRはフロイトの伯父である。また,フロイトは夢の中で彼に対して親愛の 情を感じている。

2 友人の顔つきがいつもと違ってみえる。(長目,黄色いひげ)

 

1は観念であり,2は映像である。フロイトはこの夢のばかばかしさに思わず吹き出してしまうが,自分の無意識に直面したくない事,つまり内心の抵抗がある事だと思い直し,分析に取り掛かる。

 

フロイトの分析

自分の伯父は一人だけだと思い,伯父であるヨゼフのかおを思い浮かべる。

夢のイメージである伯父の顔について考えたところ,

1 実際のRの顔より面長である。(ヨゼフの顔に近い)

2 R,ヨゼフともにひげはきれいな灰色であるが,夢では黄色くて醜かった。

3 この元気のない顔は,Rでもありヨゼフの顔でもあった。

このように二人の人物をいっしょくたにして一つのイメージで表現されることを「圧縮(condensation)という。

ヨゼフについて思い出した事は,かつて罪を犯した事があることと,その時にフロイトの父が言った「悪い人間ではないが,少し足りないところがある。」という言葉だった。

Rについて思い出した事は,Rについてではないが,Rと同じ状況にある同僚のN(ユダヤ人)との会話を思い出した。

N「私が教授になれないのは,かつてある女性が私を告訴した事があるからだ。」

 

この夢の結論

夢の中に現れたヨゼフ伯父は教授に任命されない二人の同僚(R,N)をあらわしている。一人は少し足りないもの(R)であり,もう一人は法の裁きを受けたもの(N)で,共に教授への道が閉ざされている。では,なぜフロイトはこのような夢を見たのであろうか。フロイトはその潜在思考について考えてみた。

 

この夢の背後にはRを否定し,非難する無意識の心がある。また,競争心に基づこうとした夢をわざわざ見るという事は,このふたりのR,Nに比べて自分には教授に任命される希望があると思いたい。

 

この夢が表現しているものは「こうなればいい」という自分自身の願望の現れであった。フロイトは自分にこのような野心があるという事を意識するのが苦痛であった。つまり,意識する事は苦痛であるが,本当の心の中には野心があり,それが無意識の願望(夢)という形で現れた。

以後フロイトは,「夢は願望充足である」とみなした。また,「夢の解釈は精神生活の無意識を知るための王道である」とかんがえ,フロイト自身の全仕事の要とした。

 

フロイトの考え

フロイトの考え方については,『夢判断』にかかれている。これは単なる夢の研究ではなく,精神分析の基本概念,事例史からの豊富な素材が盛り込まれている。その中で述べられているフロイトの考え方とはどのようなものであっただろうか。それは,「夢はメッセージではあるが,素人が考えているようなメッセージではない」というもので,夢の細部にそれぞれ立った一つの明確な象徴意味を割り振ったり,夢を暗号文とみなしてそれを単純素朴な鍵で解読していこうとする方法は,役に立たない。ブロイアーの浄化法,つまり自由連想を行い,習慣化した理性的批判を停止して,夢のありのままを症候として認識する事が必要だ,ということである。

 

フロイトはこのような方法で自分や患者の夢を1000以上解釈したと述べている。

その結果えられた一般的法則は,「夢は願望充足である」ということであった。そこで,一つの夢だけに当てはまるのではないだろうかという疑問が湧くのではないか。これについてフロイトは,夢には顕在夢(目覚めても多少ぼんやりと覚えている夢)と潜在的夢思考(隠されていて,仮に現れたとしても厚いヴェールに覆われていて,解読を必要とする夢)があるが,すべての夢はそのもっとも本質的な部分において,願望充足を意味している。と,多くの事例を挙げて主張した。また,なぜ厚いヴェールに覆われているのかについては,無意識的な欲望がそのままの姿で意識の中に入る事を,意識が許さないからだといっている。

 

まとめ

夢と無意識には,フロイトのいうとおり密接な関係があるのかもしれない。意識的なものと無意識的なものを両方あわせもっとものが自分であり,無意識の自分というものについて,もっと知りたくなった。

 

 

引用文献

鈴木 晶 1998『フロイト 精神の考古学者』河出書房新社

ピーター・ゲイ 著 鈴木 晶 訳 1997『フロイト1』みすず書房

フィリップ・リーフ 著 宮武 昭 薗田 美和子 訳 1999『フロイト モラリストの精神』誠信書房

 

 

発表を終えての感想

 発表を終えた時点から今日までいろいろと考えてきて,正直言ってこの先の人生についてどうしようか悩んでいます。僕が大学に行こうと思った理由は,小・中・高と生活してきて,自分というものが何であるのか疑問に思い始め,大学に行って4年間という暇な時間の中で少しでもそのヒントになるものを見つけられればいいと思ったからです。そんななかで,哲学や心理学を勉強すれば自分の疑問の答えに少しは近づくのではないかと考え,北星学園の福祉心理学科に入学しました。

 そのため,他の学生がどのような気持ちで入学して来たかは知りませんが,僕は自分を見つける事に興味を持ち,それが楽しいから入学したので,「心理学を勉強して将来の仕事に役立てよう」という気持ちはありませんでした。その気持ちは今も変わりません。今まで1年間学生として講義を受け,自分なりに興味を持った本などを読み漁ってきましたが,心理学とはどういうものであるのかまだまったく知らないといっていいでしょう。

 この発表をするにあたって,自分には心理学の専門的な事を発表することはできないし,先生もそんなことは十分ご承知のことと思ったので,自分の興味のある事を発表しようと思いました。基礎演習という事なので発表の仕方やレポートの書き方,議論の仕方などを学ぶ場だと考えたからです。しかし,発表してみると他の学生からは「これはなんなんですか」といわれ,先生からも「これは心理学ではないし,(北星の)先生方はだれもこんな物は研究していない」と言われました。「お前のやりたい事は心理学ではないし,北星にいてもしょうがない」と言われた気持ちになりました。確かに,不十分な下調べで申し訳のない発表でしたが,自分としてはへこみました。

 このあと,自分なりに反省しいろいろと考えをめぐらせ,この発表の事と心理学について一つの結論を出しました。(何か間違っていたらおしえてください)

 まずフロイトについての発表ですが,フロイトの考え方自体が主観的であり,データに基づくものではないので,これについてどんなに研究,議論をしたところで正しいか間違えているかは誰にもいう事ができない。そのため,「一人の人間の考え方」として,興味を持つ事に問題はないが,心理学の研究として取り上げる事はできない。ということではないでしょうか。

 次に心理学について自分が考えた事ですが,僕が今まで心理学に対して感じていたものは,「人(個性)それぞれの心を科学的に調べる」というものでした。しかし,この1年で,「(個性ではなく)ヒト全般の心を科学的に調べる」ことが心理学であるというように感じました。例えば何かの実験をして実験前10%だったものが実験後95%になったときに,効果があったと考えるのは,一般的なヒトとして効果があったわけで,個人のこころについて解ったとは言えないと思うのです。ぼくはむしろ,残りの5%のひとがなぜ変わらなかったのかを知りたいのです。それが個性だとおもうからです。

 「心理学を知らないくせに何バカなこといってんだ。」と思われるでしょうが,これが現時点での僕の考えです。自分としても心理学のすばらしいと思われる世界を知らないでこんな勝手な事をいうのは嫌なので,心理学科に入学した以上,残りの3年間もしくはそれ以上を費やして徹底的に心理学について理解し,研究した上で自分の持つ疑問に答えを出せればいいと思うのですが,もし何か「こうしたほうがいい」というアドバイスがあれば教えていただきたいです。

 この基礎演習発表についての感想ですが,こうした自分の疑問を考え直すきっかけとなったことには大きな意義があったと思います。この発表がなければ自分の大学に対する態度が,受動的になり卒業をするための大学生活になっていたかと思うと恐ろしいです。

 ところで,僕はこれを書く前自分に対しとても不安でいっぱいでしたが,これを書くことで今はこの先の自分の生き方に希望と指標が見えたような気持ちになりました。これが浄化法(カタルシス)なのでしょうか。